外伝2 禁后(パンドラ)― 前半 ―
山を三つ越えた先に、その村はあった。
地図にも載っていない。
黒乃零がそれを知ったのは、依頼ではなく――「休息」を求めた結果だった。
春が来たとはいえ、山の空気はまだ冷たい。
夜の帳が降りるころ、零とクロは一軒の古い宿屋に辿り着いた。
「泊めていただけますか」
零が声をかけると、
戸口に出てきた老婆が目を丸くした。
「……旅の方? 珍しいねぇ……この時期に」
老婆は二人を部屋に通し、温かい粥を出してくれた。
クロは足元に丸まり、火鉢のぬくもりを感じていた。
「この村は、静かですね」
零の言葉に、老婆はほんの少し眉を曇らせた。
「静か……ねぇ。静かすぎるくらいだよ」
その言葉のあと、老婆は何かを言いかけて――やめた。
零は、わざとそれを追及しなかった。
呪いというものは、こうして“語られぬまま”村に沈殿していくのだ。
翌朝。
柔らかな陽が障子を透かしていた。
クロは窓辺で欠伸をし、零は書物を閉じる。
「久しぶりに何もない時間だな」
「うん。たまにはいいでしょ? こういうの」
クロの尻尾がゆらゆらと揺れた。
零も、薄く笑った。
だが、その穏やかさは――
昼を過ぎた頃、扉を叩く音で終わりを告げた。
コン、コン。
「……失礼します」
戸の向こうに立っていたのは、宿の娘だ。
歳は十五ほど。
栗色の髪に、緊張の色が浮かんでいる。
「ご飯を運びに来ました。それと――」
娘は何か言いかけて、唇を噛んだ。
「村で……ひとり、帰ってこない子がいるんです」
零の表情が僅かに変わる。
「帰ってこない?」
「はい。わたしの友達で、すぐそこの山裾に住んでる子なんですけど……昨日、“行っては行けない家”に行ったまま……」
クロがぴくりと耳を立てた。
「“行っては行けない家”? まさか――」
娘はこくりと頷く。
「“禁后様”の家です」
その夜。
村の中央にある社の前に、零とクロは立っていた。
灯りも乏しく、木々が風に鳴く。
小さな祠の前には、古びた木札が立っている。
「禁后の名を呼ぶな」
零が小声で読んだ。
「……禁后、か」
クロが呟く。
「“禁じられた后”って書くのね。……変な名前」
零は首を横に振った。
「恐らく“仮の名”だ。真の名は封じられている」
「まるで“封印された祈り”みたい」
「その通りだ。この祠の造りは、呪物封印の構造に似ている」
夜風が吹く。
どこか遠くで、女の声がした気がした。
「……あの子を返して……」
クロの毛が逆立つ。
「零、今の聞こえた?」
「――ああ。始まったな」
翌日。
村人たちは口を閉ざした。
誰もその“家”のことを話したがらない。
だが、老婆だけはぽつりと呟いた。
「……“禁后様”の家に入ったら、戻れないよ。昔からそうだ。あれは“母が娘を喰う家”だからねぇ」
零は静かに老婆に頭を下げた。
「場所を教えてもらえますか」
老婆はためらい、震える指で山の方を指した。
「村の外れ。二階建ての古い家。鏡台が置いてある部屋には、絶対に近づくんじゃないよ……」
黄昏。
零とクロは、村の外れに佇む廃屋の前に立っていた。
家は傾き、蔦が絡みついている。
窓の向こうは闇。
だが、確かに中に“誰か”の気配があった。
「零、この感じ……強すぎるよ」
「分かっている。ここには、“供物”の気が染み付いている」
零が扉を押す。
ギィ、と音を立てて開く。
中は埃と鉄の匂い。
壁には古い御札が貼られ、
床には――小さな血の跡。
「……人間のものだな」
クロが低く唸る。
「零、あの子、まだ生きてる?」
「分からん。だが――間に合うかもしれない」
零は指を鳴らし、符を床に置いた。
「封陣・探祈」
符が淡く光り、床下から小さな声が響く。
「……お母さん……まだ、痛いの……」
クロの瞳が震えた。
「……零、これ、子どもの声……」
「いや、“呪いそのもの”の声だ」
零は階段を見上げた。
「上だ」
二階へ上がると、
そこには鏡台があった。
古びた木製。
上部と下部、二段の引き出し。
鏡はひび割れ、表面には血のような染みがこびりついている。
零が低く息を吐く。
「……これが、“禁后”の祭壇か」
クロが鏡を見つめる。
「鏡、映ってない……」
「“祈り”を封じる鏡だ。自分を映すことで呪いを媒介する」
零が手を伸ばす。
その瞬間――
鏡の奥で、何かが動いた。
黒い影。
そして、女の声。
「娘は、母のために在る。この身、この指、この名、この声――すべて、母の楽園へ捧ぐもの。」
クロが唸る。
「……この声、まだ“生きてる”」
零が小さく頷く。
「この家そのものが、“母”だ」
零は懐から筆を取り出し、半紙を広げた。
「封祈式・反供」
符が光る。
鏡の中の影が激しく揺れ、
部屋の空気がひび割れたように歪む。
「クロ、退避――!」
「分かってる!」
黒い腕が鏡から伸び、
クロの首元を掴もうとする。
零が手印を組み、札を叩きつけた。
「祈返・禁后断!」
閃光が走り、鏡が砕け散った。
床に倒れ込むと同時に、
零は血を吐いた。
クロが駆け寄る。
「零! 大丈夫!?」
「……問題ない……だが、“本体”はまだだ」
クロが息を呑む。
「まだ、いる……?」
零が頷く。
「“隠し名”を守っている――母親の亡霊だ」
床下から、女の笑い声が響いた。
「隠し名を知らぬ者に、娘は救えぬ」
クロが牙を剥く。
「上等だよ。あたしたちが“名前”を返してやる」
零は静かに立ち上がり、割れた鏡台の下を見た。
そこに――血に濡れた半紙が落ちていた。
そこには、震えるような筆致で書かれた二文字。
『禁后』
零は目を細めた。
「……“仮の名”だな」
クロが低く呟く。
「じゃあ、“本当の名前”は……」
零は唇を噛んだ。
「――この鏡の下、下段の引き出しにある」
クロが顔を上げる。
「でも、それを見たら……」
「発狂する、か。だが、見なければ“娘”は永遠に呪われたままだ」
零はゆっくりと膝をつき、
震える手で、鏡台の下段に触れた。
冷たい。
まるで人肌のような感触。
「……クロ。もし俺が正気を失ったら、頼む」
クロの瞳が揺れる。
「やだよ」
「命令だ」
「……分かった。でも、必ず戻ってきて」
零は頷き、
ゆっくりと引き出しを開けた。
――その瞬間、空気が裂けた。
腐臭と血の香り。
中にあったのは、白く干からびた少女の手首。
そして、その内側に――
無数の“読み仮名”が血文字で書かれていた。
「……あ……ぁ……」
零の視界が揺れる。
喉が焼けるように熱い。
黒い声が頭の中に流れ込む。
「見たな。――母を、楽園へ。」
クロが叫ぶ。
「零ッ!!」
部屋中の灯りが一斉に消えた。
外の風が唸り、
屋敷全体が呻くように軋む。
そして――
鏡の破片に、零の瞳が映った。
その奥には、女の影が微笑んでいた。




