第十話 クロの帰還 ― 中半 ―
朝の光が事務所の中に満ちていた。
昨日までと何も変わらない風景のはずなのに、
今はどこか柔らかく感じられる。
零は机の上で書きかけの符を整えながら、
静かに息をついた。
クロは窓辺に座り、陽だまりの中で丸まっている。
蝋燭の代わりに、
ささ 新しい祈り箱が光を反射していた。
箱の上に零が刻んだ小さな文字が見える。
――共祈。
「クロ。」
「ん?」
「お前が帰ってきてから、空気が変わったような気がする」
クロが目を細めて笑う。
「それはきっと、“光が入った”からだよ」
「光?」
「うん。あなた、今までずっと“影”の中にいたもん」
零は苦笑した。
「お前の言葉は相変わらず核心を突く」
クロが伸びをして、机の上に跳び乗る。
「でも、あたしも影なんだよ?」
「そうだな。けれど影があるから光が見えるクロが喉を鳴らす。」
「……あのね零。あたしがいなくなってた間、あなたの祈り、ちゃんと届いてたよ」
「届いてた?」
「“海”でね、ずっと光が降ってた。あれ、多分あなたの祈り」
零は少しだけ視線を落とした。
「……そうか」
ちりん。
小さな鈴の音。
扉の前に、人影が立っていた。
「依頼者か」
クロが姿勢を正す。
零が扉を開けると、
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
年の頃は十五、六。
制服の裾が濡れており、瞳の奥に怯えがある。
「……ここ、“黒猫呪術代行事務所”ですか?」
零は頷く。
「そうだ。入るといい」
少女は小さく頷いて中に入った。
部屋に入ると同時に、クロが机の上から軽く鳴いた。
「にゃあ」
少女が目を丸くする。
「黒猫……」
零が微笑む。
「気にしなくていい。うちの“助手”だ」
少女は小さく会釈をした。
「……お願いがあるんです」
「内容を聞こう」
少女は震える声で語り始めた。
彼女の名は凪。
数ヶ月前、事故で妹を亡くした。
以来、夜になると、妹の声が部屋で聞こえるという。
最初は夢だと思った。
けれど、最近では――その声が、彼女の名を呪うように呼ぶ。
「お姉ちゃんが助けてくれなかったから、わたしはここにいるの」
それが、毎夜、耳元で囁かれる。
「……怖くてでも、本当に妹なら、助けたい気持ちもあって……」
零は静かに頷いた。
「つまり、“祈りと呪い”が混ざっている」
「はい……」
クロが机の上から降り、少女の足元に近づいた。
そして、くるりと一周して戻る。
「……零、この子の周り、すごく“濃い”」
零は頷く。
「分かっている。――“残響”だ」
「残響?」少女が顔を上げる。
「人が強い想いを残して死ぬと、その想いの“残り音”が周囲に漂う。お前の妹の声は、おそらく“残響の祈り”だ」
凪の瞳が揺れる。
「じゃあ……呪ってるんじゃなくて、祈ってる?」
「どちらも同じことだ。“帰りたい”という願いと、“戻れない”という絶望が、形を変えただけ」
クロが静かに言った。
「……だから、行こう。あたしたちで“祈りを返す”の」
夜。
零とクロ、そして凪は、
彼女の家――事故で妹を亡くした部屋へと向かった。
街の外れ。
薄暗い団地の三階。
その部屋のドアの前に立った瞬間、
零は感じた。
空気が、凍っていた。
「……確かに、“残響”が強い」
クロの毛が逆立つ。
「零、この感じ……“海”の底と同じ匂い」
零は頷いた。
「ここには“祈り”が閉じ込められている」
扉を開けると、部屋の中は整然としていた。
けれど――鏡の前にだけ、異様な気配がある。
凪が震える声で言った。
「いつも、そこから……声がします」
零は机に符を並べ、
クロが床に小さな円を描いた。
「“共祈陣”、展開」
淡い光が走る。
零が指を鳴らすと、部屋の中の気が動いた。
鏡の表面が波紋のように揺れ、
中から、声が聞こえた。
「お姉ちゃん……」
凪が息を呑む。
「ひな……!」
零は手を翳し、
「静かに。今は“祈り”の時間だ」
クロが少女の傍に寄り添い、
「泣かないで。ちゃんと届くよ」と囁いた。
鏡の中の声が、次第に明瞭になっていく。
「苦しかったよ……どうして助けてくれなかったの」
凪の肩が震える。
「ごめん……ごめんね……!」
その瞬間、零が符を投げた。
札が光り、鏡を包む。
「――“影祈返し(えいきへんし)”!」
零の声が響くと同時に、鏡の中から黒い煙が噴き出した。
部屋の空気が圧縮され、光が弾ける。
クロがその中心に跳び込んだ。
黒い煙が彼女を包む。
(……あたしは影。だから、影を喰える。)
クロの身体から光が漏れ、
黒い煙がゆっくりと消えていく。
やがて、鏡の表面に小さな少女の姿が映った。
凪の妹――ひなが、穏やかな顔で微笑んでいた。
「お姉ちゃん、ありがとう。」
その声は、もう呪いではなかった。
凪の涙が頬を伝う。
「……ひな……ごめんね……!」
零が静かに言った。
「――祈り、還元。」
光が鏡の中へ吸い込まれていく。
その瞬間、部屋の空気が柔らかく変わった。
凪の肩から重みが抜け、
長く張り詰めていた糸が静かにほどけていく。
クロが床に降り立ち、息をついた。
「ふぅ……すごい“祈り”だった」
零が微笑む。
「お疲れさま。よくやった」
クロが尻尾を揺らす。
「あなたこそ、ね」
帰り道。
凪は涙を拭きながら何度も頭を下げた。
「本当にありがとうございました……!」
零は首を振る。
「礼は不要だ。祈りは、返ってくるものだ」
「……はい」
少女の後ろ姿が夜の街に消えていく。
クロが小さく呟く。
「零、あの子、もう大丈夫だね」
「ああ。彼女は祈りを“知った”」
ふたりの間に、春の風が吹いた。
花の香りが微かに漂う。
クロが夜空を見上げる。
「ねぇ零。人の祈りって、どこへ行くんだろう」
「さぁな。けれど、確かに“誰かの中”に残る」
「ふふ。なら、あたしたちの祈りも、きっとどこかで誰かを包んでるね」
零は小さく頷いた。
「――そうだな」
事務所に戻ると、
蝋燭の火がひとりでに灯っていた。
机の上の祈り箱が淡く光を放ち、
その表面に新しい文字が浮かぶ。
『祈り、共に在る者へ還る』
クロがそれを見て、静かに笑った。
「やっぱり、あたしたちの祈りも届いてた」
零が頷く。
「それが“共祈”ということか」
クロが机の上に座り、
「ねぇ零。次の依頼は、どんな人だと思う?」
「さてな。けれど、また誰かの“声”が届くだろう」
――ちりん。
その言葉と同時に、扉の鈴が鳴った。
零とクロは、顔を見合わせて笑った。




