第十話 クロの帰還 ― 前半 ―
――闇の中に、光があった。
柔らかな青白い光。
それは水の底で差す月明かりのようで、
その光の中にクロは漂っていた。
(……ここは……?)
自分が“祈りの海”に沈んだあと、どれほどの時が経ったのか。
時間の感覚はとうに失われ、ただ無数の声が水面の上から響いてくる。
「お願い……」
「どうか、助けて……」
「祈りは、届くのだろうか……」
そのすべてが、人の“祈り”だった。
溺れそうなほどに溢れ、
痛みも悲しみも、どれも同じように美しかった。
(……零……あなたも、まだ祈っているの?)
クロの胸の奥で、淡い痛みが走った。
彼女は静かに目を閉じた。
――そして、その瞬間、聞こえた。
「……クロ。」
零の声。
それは遠く、でも確かに呼んでいた。
(……あなたが、呼んでくれるなら。あたしは、何度でも戻る。)
クロはそっと目を開け、光の方へと手を伸ばした。
その指先から、小さな光の粒が溢れ出し、
水面を突き抜けていく。
同じ頃、地上。
黒猫呪術代行事務所の灯は消えていた。
零は机に伏せたまま、うたた寝をしていた。
机の上には、半ば書きかけの札と、
“白猫”の名を持つ新しい式――白が、静かに座っている。
夢の中で、零は海を見ていた。
光のない、深い底。
その中で、懐かしい声が微かに響く。
「――零。祈りは、届いた?」
零はゆっくりと振り向いた。
闇の中から、ひとすじの光が差す。
そこに、黒猫の姿があった。
「……クロ……?」
猫は静かに微笑んだように見えた。
「遅くなっちゃった。でも、また来たよ」
零が手を伸ばそうとした瞬間、夢が砕けるように光が弾けた。
――鈴の音で、目が覚めた。
ちりん、と。
あの音。
零は顔を上げた。
扉が、ゆっくりと開いていた。
風が吹き込み、祈り箱の上にひとつの影が落ちる。
黒い毛並み。
夜の闇のように光を吸い込む身体。
そして、金色の瞳。
「……クロ……?」
黒猫が、そこにいた。
まるで初めて来たように、慎重に部屋を見回し、それから静かに零の方を向いた。
「おかえり」
その言葉を口にした瞬間、
零の目から涙がこぼれた。
猫は小さく鳴き、机の上に跳び乗る。
祈り箱の前に座り、尻尾を揺らした。
零が震える声で問う。
「……どうやって、戻ってこれた?」
黒猫は一度瞬きをし、
まるで笑うように、心に直接響く声を返した。
「あたしを呼んだのは、あなたでしょう?」
零は目を見開いた。
その声は、確かにクロのものだった。
その夜。
零とクロは、再び向かい合っていた。
机の上には、未完成の祈り札。
その上に、淡く光る祈り陣が広がっている。
「……お前は、“祈りの海”に還ったはずだ」
「うん。でもね、海の底でずっと聞こえてた。“零が、まだ祈ってる”って。だから帰ってきたの」
零は俯いたまま、苦く笑った。
「……俺は、もう祈る資格なんてない」
「それ、何度目の言葉?」
クロの声は優しく、けれど確かだった。
「あなたがそう言うたび、あたしはまた呼ばれる。それが、“黒猫”の役目だから」
零は顔を上げ、クロを見つめた。
「黒猫の……役目?」
「うん。“祈りを繋ぐ者”。あなたが途切れそうになった時、影から光を運ぶ存在」
零はしばらく黙っていたが、
やがて小さく笑った。
「……まるでお前の方が、祈りの主みたいだな」
「ふふっ。今だけね」
蝋燭の灯がゆらめき、
クロの金の瞳に炎が映った。
零は、机の上に新しい札を置いた。
筆をとり、文字を記す。
『依頼者:黒乃零対象:黒猫クロ 願い:――もう一度、一緒に歩むこと』
クロがそれを見て、少し笑った。
「そんな依頼、初めて見た」
「俺自身の祈りだからな」
零が手を翳すと、祈り札が淡く光った。
空気が柔らかく震え、札の文字が静かに浮かび上がる。
――契約、再結。
その瞬間、クロの身体から光が溢れた。
毛並みが風に揺れ、瞳が涙のように輝く。
「……これで、もう離れないね」
「二度と、お前を“影”にはしない」
零がそっとクロを抱き上げた。
温かい。確かに生きている。
あのとき、祈りの海に沈んだ彼女の冷たさは、もうどこにもなかった。
外では、雨が上がっていた。
夜明けの光が雲の隙間から差し込み、
事務所の中を金色に照らす。
クロが窓辺に座り、
朝の光に目を細めた。
「ねぇ、零」
「なんだ」
「これからも、祈りを続けるの?」
「ああ」
「だったら――今度は一緒に祈ろうよ」
零は微笑んだ。
「……それは、悪くない提案だ」
クロが尻尾を揺らす。
「じゃあ約束。あなたが祈る時、あたしが隣で“影”になる」
「そして俺が、お前の“灯り”になる」
ふたりの視線が交わる。
蝋燭の灯が風に揺れ、
祈り箱の鈴が、やさしく鳴った。
――ちりん。
その音を合図に、黒猫呪術代行事務所に、再び“祈りの時間”が流れ始めた。




