第九話 黒猫の夢 ― 後半 ―
夜の帳が下りていた。
黒猫呪術代行事務所の窓から見える街は、
雨上がりの舗道が光を返している。
零は机に向かい、
古いノートのページをゆっくりと閉じた。
「……香澄、クロ、そして灯。祈りは形を変えて、俺の前に現れる。まるで、“まだ続いている夢”のようだ」
クロはソファの上に丸くなり、
尻尾を小さく動かしながらその声を聞いていた。
「零、あたし……まだ、夢の続きが残ってる気がする」
「夢?」
「うん。あの“祈りの海”で、最後に聞こえた声があったの。“あなたの祈りは、まだ終わっていない”って」
零は小さく息を吐いた。
「それは、香澄の声か?」
「違う……もっと遠くの、柔らかい声。でも、すごく懐かしかった」
クロは首を傾げながら、外の夜空を見上げた。
月が雲の切れ間から覗く。
その光は、まるで誰かの想いのように淡く優しかった。
零は静かに立ち上がり、
棚から一枚の古びた札を取り出した。
黒地に金の文字――「縁」。
「……この符は、香澄が最後に作った“縁結び”の符だ。誰かの祈りと、誰かの想いを繋ぐ」
クロの瞳が揺れる。
「零、それって……」
「ああ。この符が反応しているということは、“新しい祈り”が生まれたということだ」
符が淡く光る。
光はゆっくりと漂い、事務所の窓辺へ。
そこから、ひとすじの風が吹き込んだ。
風の中に、小さな声が混じる。
――「……ねぇ、誰かいますか?」
クロが耳をぴくりと動かす。
「零! いま、聞こえたよ!」
零は頷き、窓の外を見つめた。
風に乗って、ひとひらの桜の花びらが舞い込む。
それが零の掌に落ちた瞬間、
室内の空気が一変した。
「――これは、“呼び声”だ」
クロが首を傾げる。
「呼び声?」
「祈りが強すぎると、祈られた側に届く。つまり今の声は、“俺たちを呼んでいる”」
「誰が?」
零は少しだけ目を細めた。
「……まだわからない。だが、おそらく“あの子”だ」
「――灯?」
零は頷く。
「祈りは輪だ。彼女の魂は、また新しい形で戻ってくる」
クロは静かに微笑んだ。
「そっか……じゃあ、また春が来るんだね」
夢の続きを見るように、
クロはその夜、目を閉じた。
再び訪れた白い世界。
けれど、前回と違っていた。
そこには扉があった。
古びた木の扉。
取っ手には小さな鈴が下がり、
扉の上には看板のような文字が刻まれていた。
【黒猫呪術代行事務所】
(……ここは、あたしたちの場所)
クロが扉に手をかけようとした瞬間、
背後から声がした。
「――ようやく戻ってきたね」
振り返ると、そこに香澄がいた。
前と同じ、淡い桜色の着物姿。
彼女の表情は穏やかで、どこか嬉しそうだった。
「香澄さん……」
「おかえり、クロ。この場所は、あなたが見続けた“夢”の形。でも、本当の意味では、あなたの心そのものよ」
クロは扉を見つめた。
「夢の形……?」
「ええ。この事務所は、あなたと零が作った“祈りの結晶”。人の想いが溜まり続け、形を持ったもの。あなたが眠るたびに、この世界は少しずつ広がっていく」
クロの胸が温かくなった。
「じゃあ……あたしは、ちゃんと役に立ってたんだね」
香澄が微笑む。
「もちろん。零の祈りが人を救い、あなたの影がその心を守る。二人で一つの命を紡いできた」
香澄が一歩、近づく。
「けれど、クロ。そろそろ“次の夢”へ行く時が来た」
「……次の夢?」
「祈りの輪は続くの。あなたは“影”として、次の光に寄り添わなければならない」
クロの瞳に戸惑いが浮かぶ。
「それって……零と別れるってこと?」
香澄の瞳が少し切なげに揺れる。
「別れるんじゃない。“託す”の。零の祈りが尽きない限り、あなたの存在は消えない」
クロは唇を噛んだ。
「……でも、寂しい」
「寂しさも祈りの一部よ。祈りは悲しみと共にある。だからこそ、誰かの胸で生き続ける」
香澄が微笑み、クロの額に指先を当てる。
「これが“夢の終わり”――そして、“次の始まり”」
光が弾け、
クロの身体が再び黒猫の姿に戻る。
彼女は扉を押した。
カラン……。
小さな鈴の音が響く。
扉の向こうは、眩しい光。
そこに――“声”があった。
「……あの、ここ、“黒猫呪術代行事務所”ですか?」
女の子の声。
柔らかく、どこか懐かしい響き。
クロは瞳を見開く。
その声は、間違いなく――灯の声だった。
光が収束し、世界が再び現実に戻る。
朝。
事務所の扉が静かに開いた。
そこに立っていたのは、
制服姿の少女だった。
「……あの、すみません。ここ、呪いを解くお店って聞いたんですけど」
零は顔を上げ、
ゆっくりと微笑んだ。
「ようこそ、“黒猫呪術代行事務所”へ」
クロは窓辺で尻尾を揺らしながら、
静かにその光景を見つめていた。
少女の手には、小さな箱――
それは、以前灯が置いていった祈り箱と同じ形をしていた。
零はその箱を見て、微かに呟いた。
「また、春が来たな……」
少女が不思議そうに首を傾げる。
「え?」
「いや、何でもない」
クロが静かに笑った。
(――おかえり、灯。)
零が立ち上がり、
少女に向かって言った。
「では、依頼内容を伺おうか。君の“祈り”は、どんな形をしている?」
少女は少し考えてから言った。
「“もう一度、大切な人に会いたい”んです」
その言葉に、零とクロは目を合わせた。
クロが小さく囁く。
「零、また祈りが始まるね」
「――ああ。これが、終わらない夢だからな」
窓の外では、春の風が吹いていた。
桜の花びらが舞い、
事務所の中に一枚だけ舞い込む。
それはまるで、祈りの欠片のように、
机の上の祈り箱にそっと落ちた。
そのとき――クロはふと気づいた。
机の上のノートが、勝手に開かれていた。
風が一枚のページをめくり、
そこには零の筆跡でこう記されていた。
「――黒猫とは、祈りの化身。夢を喰い、痛みを抱き、想いを繋ぐ存在。」
クロは目を細め、
そっとそのノートに頭を擦り寄せた。
「……ねぇ零。夢って、終わるもの?」
零は微笑みながら答える。
「いや、夢は続く。ただ、見る人が変わるだけだ」
クロは小さく頷いた。
「なら――あたしは、次の夢を見に行くね」
「行ってこい。そして、また戻ってこい」
零の声が優しく響く。
クロは窓辺に跳び乗り、
朝の光の中へ溶けるように消えていった。
風が吹く。
光が差す。
机の上の祈り箱が、微かに揺れた。
中から、鈴の音が響く。
――ちりん。
零は目を閉じ、静かに微笑んだ。
「行ってらっしゃい、クロ」




