第九話 黒猫の夢 ― 中半 ―
――再び、夢の中。
闇と光の境界に、波のような音が響いていた。
けれど、それは海ではなく、“心の底”で流れる音だった。
クロはゆっくりと目を開けた。
そこは、まるで水の底のような場所。
重い空気が漂い、上下もわからない。
光の粒がゆっくりと漂い、彼女の身体を撫でていく。
(……ここは、“祈りの海”。)
零が言っていたことを思い出す。
人の祈りと呪いが沈殿し、形を失って混ざり合う場所。
この世界に生きるすべての“想い”が還るところ。
クロは歩き出す。
足元には道がない。
けれど、光の粒が導くように進むたび、
空間に“記憶”が浮かび上がっていく。
最初に見えたのは、小さな祠。
苔むした石段。
その前で、若い男女が並んでいた。
男の方は、まだ少年の面影を残している。
黒髪、澄んだ瞳。
その隣で、女が手を合わせて祈っていた。
風に髪が揺れる。――香澄。
(……これ、あの日の始まり?)
香澄が微笑み、零の手を取った。
「ねぇ、零。人の呪いってね、怖いものだけど、裏返せば“祈りたいほどの想い”なんだよ」
零は困ったように笑う。
「それは、きっとお前だからそう思えるんだ」
「ううん、零も同じ。あなたは誰よりも、人の痛みに気づく人だから」
香澄の瞳がまっすぐに彼を見た。
「だから、いつかあなたは、“呪いを祈りに変える人”になる」
零はその言葉を聞いて、俯いた。
「……俺にそんな力はないよ」
「あるよ。だって、あたしが信じてるもん」
香澄の言葉に、零は小さく笑った。
その笑みは、まだ幼く、
けれど確かに“黒乃零”の原型だった。
クロは歩を進めた。
光が揺れ、次の景色が映る。
そこは、あの夜――香澄が命を落とした場所。
ただ、今度は違っていた。
闇の中で、香澄が祈っている。
周囲には無数の呪符と陣。
その中心に、倒れた零の身体。
香澄の声が震えていた。
「……お願い。この人の命を、祈りで繋いで」
風が吹き荒れ、陣が光を放つ。
呪詛が形を変え、祈りの紋様へと変化していく。
「――“命を、渡す”。あなたの痛みを、私の祈りに変える」
光が弾けた。
香澄の身体が崩れ落ち、零が息を吹き返す。
そのとき、香澄の魂の欠片が空へ舞い上がる。
小さな黒い光。
それがやがて、黒猫の形に変わっていった。
(……あたし。)
クロは息を呑んだ。
自分の“始まり”を見ていた。
零の傍に寄り添う、小さな黒猫。
その身体に、香澄の声が重なる。
「零……あなたが泣くとき、わたしは隣で、静かに見ているから。だから、祈りを忘れないでね」
光景がゆっくりと薄れていく。
クロは手を伸ばしたが、指先は虚空を掴むだけだった。
「……香澄……」
その声に、別の声が応えた。
「――“それはお前自身の名前でもある”」
振り向くと、そこに“もう一人の自分”がいた。
香澄の姿をしたクロ。
人の姿で、穏やかに微笑んでいた。
「あなたは……」
「わたしは、祈りそのもの。そして、あなたはその“影”。影があるから、祈りは形を持つ。だから、あなたは消えてはいけない」
クロは震える声で問う。
「でも……あたしは、祈りの一部でしかない。零の隣にいる資格なんて……」
香澄が首を振る。
「違う。あの人が生きてこられたのは、あなたが“影”でいてくれたから。光は影があるから見えるの」
クロの瞳に涙が滲む。
「でも……あたしは、もう一度“人”になりたかった」
「それなら、なりなさい。人の形は、想いの強さが生むものよ」
香澄はクロの胸に手を当てた。
その瞬間、クロの身体が淡く光り出す。
「この世界が終わるとき、あなたは“新しい命”として生まれ変わる。その時は、もう黒猫ではなく、人として」
クロの心に、光が広がる。
「……人として?」
「ええ。それが、“祈りの継承”」
光が強くなり、香澄の姿が溶けていく。
「さぁ、行きなさい。零のもとへ。彼の祈りは、まだ終わっていない」
クロが叫ぶ。
「待って! あなたは――!」
光の中から声が返る。
「――“黒乃零”という名の意味を、思い出して」
光が弾けた瞬間、
クロは再び闇に包まれた。
(……黒乃零、という名の意味……?)
零の名を思い浮かべた瞬間、
脳裏に文字が浮かぶ。
「黒」――影、祈りの根。
「乃」――“から生まれる”。
「零」――始まりの無、祈りの源。
(……黒から生まれた始まり。)
クロは小さく呟いた。
「あなたの名前は、“影から生まれた祈り”……」
その瞬間、
光が一気に弾け、彼女の身体を包み込んだ。
目を覚ますと、零がそこにいた。
彼は椅子に座ったまま眠っていた。
机の上には、古びたノートが開かれている。
クロはそのノートを覗き込んだ。
そこには零の手で書かれた文字。
「黒乃零――“黒き祈りより生まれた者”。祈りの名を継ぐ者。人の痛みを受け入れ、呪いを光へ変える者。」
クロは小さく息を呑んだ。
「……これ、あなたが、自分の名前につけた意味……?」
零がゆっくりと目を開ける。
「起きたか、クロ」
「……夢を見たの」
「知っている。お前の祈りが、俺の夢にも届いた」
クロはそっと彼の胸に額を当てた。
「ねぇ零。“黒乃零”って、どういう意味?」
零は静かに答える。
「“黒き影から零れた祈り”。俺は、お前から生まれたんだ」
クロは目を見開いた。
零は微笑む。
「お前の祈りが、俺を作った。だから、俺の名前には“黒”がある。お前は祈りの影であり、俺はその影から生まれた光なんだ」
クロの瞳に、涙が溜まる。
「……そんなの、ずるいよ。あたしばっかり救われてるみたいじゃない」
零は優しく微笑んだ。
「救われているのは、俺の方だ。お前がいてくれたから、祈りを続けられた」
クロはその胸に飛び込み、
静かに涙をこぼした。
「零……あなたは、光じゃないよ。あなたは“灯り”だ。暗い夜に、誰かが歩くための灯り」
零は彼女の頭を撫でながら、
小さく呟いた。
「――灯か。また、あの名が出たな」
クロが目を上げる。
「え?」
零は微笑んで言った。
「あの子の名も、“祈りの再生”だったんだ。すべては、ひとつの円の中にある」
その夜、
黒猫呪術代行事務所の窓から、
春の風が吹き込んだ。
机の上の祈り箱が淡く光り、
中から小さな音が響く。
――ちりん。
クロが耳をぴくりと動かす。
「ねぇ零。……夢の中で、香澄さんに会ったの」
「そうか」
「彼女は言った。“あなたの祈りはまだ終わっていない”って」
零は微笑んだ。
「ああ。終わらせるつもりもない」
クロが首を傾げる。
「ねぇ零。もし、祈りに終わりがないなら、それって呪いとどう違うの?」
零は窓の外の夜空を見つめながら、
静かに答えた。
「――呪いは“閉じる想い”。祈りは“繋げる想い”。」
クロはその言葉を、胸の奥で反芻した。
そして小さく微笑む。
「……なら、あたしはあなたの“繋ぎ目”でいるね」
零は頷き、
「それが、お前の居場所だ」と囁いた。




