第九話 黒猫の夢 ― 前半 ―
――夢を、見ていた。
真白な空間。
音も、匂いも、何もない。
けれど確かに、自分がそこにいるとわかる。
“わたし”は黒猫の姿をしていた。
けれど、その身体は少しずつ透けていく。
肉体ではない、魂の残響。
ここは“祈りと呪いの狭間”――人の心が残す、記憶の海。
(……ここ、どこだろう)
そう思った瞬間、
遠くに光が見えた。
春のように柔らかな、淡い金色。
その光に導かれるように、わたしは歩き出した。
光の先には、小さな庭があった。
風に桜の花びらが舞い、石畳の道の向こうに、古びた家が見える。
そこに――ひとりの少年が立っていた。
黒い髪。澄んだ瞳。
まだ幼さを残すその顔は、どこか懐かしかった。
(……零?)
わたしがそう思った瞬間、
少年がこちらを振り返った。
「……誰?」
その声は幼い。けれど、聞き間違えようがなかった。
黒乃零。まだ“呪術師”になる前の彼。
わたしは驚いて声を出そうとしたが、
猫の口から出たのは、かすかな鳴き声だけだった。
「……猫?」
少年が近づく。
小さな手がそっと伸ばされ、わたしの頭を撫でた。
その手は温かかった。
「迷子か。……俺も、少し迷ってるんだ」
(……迷ってる?)
「母さんが、もういないんだ。父さんも、知らない顔してる。家の中は、静かで、寒くて」
少年の言葉に、胸の奥がきゅっと痛んだ。
零は昔から、孤独を知っていた。
人の心の温度を誰よりも理解しながら、
自分の心には触れさせない。
――それが、彼の最初の“呪い”だったのだ。
(あの時のあなたに、寄り添えたらよかったのに)
そう思った瞬間、
少年の瞳が、まるで聞こえたかのように動いた。
「……今、誰かが呼んだ気がした」
(……零)
「猫の声じゃない。もっと……懐かしい声」
風が吹き、桜の花びらが舞う。
その花びらのひとひらが、少年の頬に触れた。
零が微かに笑う。
「……変だな。泣いてないのに、頬が熱い」
(あなたは、ずっと泣いてたのよ、零。泣くことを、やめただけで)
光景が揺らいだ。
次の瞬間、世界は夜に変わった。
そこは、見覚えのある路地。
血の匂い、濡れた石畳、散った符の残骸――
あの日、香澄が死んだ夜。
わたしの胸に痛みが走る。
(……ここは、だめ。見たくない)
だが、視界は勝手に進んでいく。
倒れた少女。
血の中で、微笑む。
その目の前に、若き日の零が立っていた。
呆然と、声も出せず、ただその身体を抱きしめている。
香澄――それが“わたし”の名だった。
「……零、泣かないで」
彼の頬を、震える手で撫でながら、わたしは最後の言葉を口にした。
「人の呪いは、人が祈りに変えられる。あなたなら、きっとできる」
その言葉を最後に、視界が白く染まる。
わたしは、“祈り返し”を使った。
零の命を守るために、自分の魂を裂いて。
――そして、その欠片が、黒猫になった。
再び白い世界。
わたしは膝をついたような姿勢で息を整える。
(……夢? 記憶? それとも、祈りの残響?)
そのとき、背後から声がした。
「クロ」
振り向くと、そこに零がいた。
今の姿。穏やかな微笑みを浮かべる大人の零。
「零……」
「やっと見つけた」
零はゆっくりと歩み寄り、膝をついてわたしの額に触れた。
「ここは、夢の中だ。お前の」
「どうして、あなたが……」
「俺の祈りの中に、お前の魂が呼びかけてきた」
零の手が、わたしの胸に当てられる。
その奥で、二つの光がゆっくりと重なっていく。
「クロ。……いや、香澄」
「……その名前、呼ばないで」
「なぜ」
「だって、あの名前を呼ばれると、あなたの顔が悲しくなるから」
零は目を伏せ、微笑む。
「悲しいだけじゃない。あの名前は、俺が祈りを信じる理由だ」
わたしは俯いたまま、震える声で問う。
「零……あなたは、どうしてまだ祈れるの?」
「祈りは、痛みの形だ。痛みを忘れないために、俺は祈る。それが、あの日お前が残した“理”だから」
沈黙が流れる。
わたしは言葉を失い、ただその瞳を見つめた。
そこには、かつて見たことのない“優しさ”があった。
そして――その優しさは、どこか寂しかった。
(……ねぇ、零)
(もし、あなたがいつか疲れてしまったら、あたしはあなたを呪ってでも休ませるから)
(それでも、あなたは祈り続けるの?)
零の声が、静かに答えたように感じた。
「祈りは止まってもいい。けれど、“想うこと”は終わらない」
その瞬間、世界が再び白く溶けた。
光が収束し、意識がゆっくりと遠のいていく。
――目を覚ますと、事務所の天井が見えた。
蝋燭の光がゆらめき、外では夜風が吹いている。
「……夢?」
クロは静かに立ち上がり、机の上の祈り箱を見つめた。
箱の表面が、淡く光っている。
零がソファで眠っていた。
頬に落ちた光が、まるで“祈りの灯”のようだった。
クロはそっと彼の傍に座り、囁く。
「……ねぇ零。あたしね、夢を見たの。あなたの昔と、あたしの過去と、祈りの始まりの夢」
そして、小さく微笑む。
「あなたがどんなに壊れても、あたしはその痛みを抱いて祈る。だって、それが――」
クロは目を閉じた。
その身体が、淡く光を放つ。
「――“黒猫”として生まれた理由だから」




