第八話 呪い屋殺し ― 後半 ―
雨が上がり、街が静寂を取り戻した。
夜空には薄い月がかかり、屋上の床にその光が滲んでいる。
零は屋上に一人残っていた。
礼司が去ったあと、風だけが静かに吹き抜けていく。
濡れた外套の裾が揺れ、彼の胸元から何かが落ちた。
それは――一枚の封印符。
黒い紙に、見慣れた筆跡。
零が拾い上げた瞬間、符の表面に淡い光が走る。
そこにはわずかに刻まれた文字。
「――“お前の中に在る呪いを見ろ”」
クロが肩から覗き込み、小さな声で言う。
「零、それ……礼司さんが残したの?」
「ああ。“報いの鎖”を解いたあと、あいつの掌から落ちた」
「“お前の中に在る呪い”って……どういう意味?」
零は目を細めた。
「……多分、俺自身がまだ“祈りと呪いの狭間”にいるということだ」
風が吹き、封印符がひらりと舞う。
その光が一瞬だけ零の胸元に反射し、
――彼の心臓の上に、淡く光る紋様が浮かび上がった。
クロが息を呑む。
「零……それ!」
零は自嘲気味に笑った。
「“祈り返し”を使いすぎた代償だ。人の呪いを何度も取り込むうちに、“祈り”と“呪い”の境界が、俺の中で曖昧になっている」
クロの声が震える。
「それって……まるで、あなたが“呪いの器”になってるみたいじゃない」
「事実、そうだろう。祈りは呪いを抱きしめる力だ。俺は、抱きすぎたんだ」
クロは彼の胸に額を当てた。
「……そんなの、いやだよ。あなたが呪われるなんて……」
「大丈夫だ。俺は“人”の呪いを受け入れるためにここにいる」
「でも、それじゃ……いつか、あなたの心が壊れちゃう!」
零は微笑んだ。
「壊れてもいい。もし壊れることで、誰かが救われるなら」
その瞬間、
クロの瞳が、わずかに涙で滲んだ。
「零……あなたね、時々、すごく残酷だよ」
「そうかもしれないな」
「あなたが痛みを抱えるたびに、あたしの中で何かが軋むの。だって、あたしはあなたの“影”だから」
零はその言葉に目を細めた。
「影、か。……クロ、お前は俺の式神であり、祈りの媒介だ。だが、どうしてそんなに“痛み”を感じる?」
クロは一瞬、言葉を詰まらせた。
そして、ゆっくりと呟いた。
「……あたしはね、零。本当は“香澄さんの魂”の一部なんだ」
零の動きが止まった。
風が止まり、夜が沈黙した。
「……どういうことだ」
クロは胸の奥から搾り出すように言葉を続けた。
「香澄さんが死ぬ前、あなたを守るために“祈り返し”を使った。でも、その術は、術者の魂を“二つに裂く”力だった。一つは消え、もう一つは“形を変えて残る”。あたしは――その時に残った“祈りの魂”。香澄さんの、“想い”そのものなの」
零は息を飲んだ。
「つまり、お前は……香澄の祈りが転生した存在……」
「そう。でも、完全な魂じゃない。だから、あたしは“式神”としてしか生きられなかった」
沈黙。
風が屋上の端をなでる。
零の手が震えていた。
「……どうして言わなかった」
「言えなかった。もし言ったら、あなたがまた“祈りの呪い”を抱えるってわかってたから」
零は拳を握った。
胸の中で、いくつもの想いが渦を巻く。
クロは小さく笑った。
「でもね、零。あたし、あなたの傍にいられて嬉しかった。香澄としてではなく、“クロ”として、あなたの祈りを見ていられたから」
「……クロ」
「だから、お願い。もう、“呪いの器”なんかにならないで。あたしは、あなたに呪われてほしくない」
零はゆっくりと手を伸ばし、
クロの頭を撫でた。
「お前は俺の祈りそのものだ。香澄としても、クロとしても。だから――お前が消えることは、俺が消えることだ」
クロの目から一粒の涙が落ちた。
その涙が零の胸に触れた瞬間、
光が溢れ出した。
胸の紋様が淡く輝き、風が吹き抜ける。
祈りと呪いが、ひとつに融け合うように脈打った。
クロが零の胸に額を押し当て、囁く。
「――これが、あなたとあたしの“契約”」
「契約?」
「うん。あなたが人の呪いを抱くなら、あたしがその痛みを半分引き受ける。あなたは“祈り”を、あたしは“影”を――二つでひとつの魂になるの」
零は目を閉じ、静かに頷いた。
「……そうだな。それが俺たちの“祈りの形”だ」
光が静まったとき、胸の紋様は消えていた。
クロは肩の上に戻り、いつものように小さく尻尾を振る。
「零」
「なんだ」
「もう少しだけ、あなたの傍にいてもいい?」
零は穏やかに微笑んだ。
「当たり前だ。お前は俺の“祈りの半分”だからな」
その後、夜が明けるころ。
机の上の封印符が、静かに灰になっていた。
灰の中には、一枚の花びら。
それは“灯”が残したものと同じ桜色だった。
クロがその花びらを見つめ、
「……礼司さん、あなたも祈ってたんだね」と呟く。
零はその灰を指先ですくい、
窓を開けて、風に放った。
「この街のどこかで、また誰かが泣いている。ならば、祈りは続けなければならない」
「零……あなたは、本当に“呪い屋”なの?」
零は笑った。
「いや。俺は――“祈り屋”だ」
クロも小さく笑う。
「それ、いいね」
外の空は薄明るく、
新しい朝が始まろうとしていた。
桜の花びらがひとひら、窓から入り込み、
机の上に落ちる。
零がそれを指先で掬い上げ、囁いた。
「――香澄。灯。礼司。みんなの祈り、確かに届いたよ」
風が吹き抜け、
事務所の蝋燭の炎がゆらめいた。
その光の中に、黒猫の影と人影が、
まるで一つの形のように重なっていた。




