第八話 呪い屋殺し ― 中半 ―
翌日。
黒猫呪術代行事務所の中には、
昨夜の戦いの余韻がまだ微かに残っていた。
空気の奥に漂う焦げた香りと、
祈り陣が消えた跡の淡い光の粒。
クロは机の上で尾を揺らしながら、
眠れなかったのか、何度も窓の外を見ていた。
「ねぇ、零。……あの人、また来ると思う?」
零は答えず、黙って符を一枚ずつ丁寧に並べていた。
その手つきには焦りがなく、ただ静かな確信があった。
「来る。あの男は、呪いを断つためではなく、“俺自身”を確かめに来る」
「確かめに?」
「俺たちは――昔、同じ師の下で修行していた」
クロの動きが止まる。
「……まさか、あの人……」
「そうだ。鷹宮礼司。俺の兄弟弟子だ」
あの夜の戦いの光景が、零の脳裏に浮かぶ。
影が、憎悪が、涙に変わった瞬間――
あのとき礼司の瞳には、確かに“怒り”ではなく“苦しみ”があった。
クロが零の袖を爪でつつく。
「零……。どうして、彼はあなたを殺そうとしたの?」
零は静かに言葉を選ぶように答えた。
「彼は、香澄の死を“俺の罪”だと思っている――いや、正確には“俺たちの師を殺したのが俺”だと」
クロが目を見開いた。
「そんな……! だって、香澄さんは――」
「俺を守るために死んだ。だが、その真実を知る者は少ない。礼司は、俺が香澄を利用して“禁呪”を完成させたと思っている」
沈黙が流れた。
零は符を一枚手に取り、灯りに透かして見つめる。
「――礼司の理は、“報いこそ正義”だ。人の痛みを痛みで裁くことでしか、この世の均衡は保てないと信じている。それが“呪い屋狩り”の根本理念だ」
クロが低い声で言った。
「じゃあ、彼にとってあなたは……」
「“報いを歪めた裏切り者”だ」
その夜。
再び雨が降り始めた。
零は一人、屋上に立っていた。
雨粒が外套を叩き、夜風が髪を濡らす。
クロの声が背後から届く。
「零、こんな雨の中で何してるの?」
「待っている。――礼司が来る」
雷鳴が遠くで鳴った瞬間、
空間が軋むように揺れた。
闇の中から黒い霧が立ち上り、
その中にひとりの影が現れる。
「……やはり、ここにいたか」
低く響く声。
鷹宮礼司が、再び現れた。
零は振り返らずに言った。
「お前が来るとわかっていた。“理の続きを話そう”と、顔に書いてあったからな」
礼司は皮肉げに笑った。
「変わらないな、零。
冷たく、何も感じない目だ」
「感じない? 違う。感じすぎるから、静かにしているだけだ」
礼司は外套の裾を払うと、
手にした黒い短杖を地面に突き立てた。
「俺は、香澄の“祈り”を信じていない。あの女は、己の呪いを“祈り”と呼んで死んだ。だが、残されたのは呪われた土地と、死んだ弟子だけだ」
零の瞳が微かに揺れた。
「……お前は、あの夜を知らない」
「知る必要もない。結果がすべてだ」
雷光が一閃し、
礼司の杖が黒く光った。
空気が震える。
「――“契呪・報応の陣”。」
地面が裂け、無数の黒い鎖が零の足元から伸び上がった。
鎖は空気そのものを縛り、空間を閉じ込めていく。
クロが飛び出しかけたが、
零が手を上げて制した。
「下がれ、クロ。……これは、俺たちの“過去”の決着だ」
鎖が唸りを上げる。
礼司の声が低く響いた。
「零。お前がやってきた“救い”は、罪を薄め、人の痛みを誤魔化すだけだ。それを祈りと呼ぶなら、神は笑うぞ」
零は鎖に縛られながらも、静かに答えた。
「俺は神を信じていない。信じるのは“人”だ。人が呪いを生み、人が祈りを紡ぐ。――だから、どちらも人のものだ」
「人のもの、か。ならば、俺が“お前を裁く”のもまた人の理だな」
礼司が杖を振り上げる。
空気が一気に冷たくなり、
零の身体を覆う鎖が赤く光り始める。
「この鎖は、“罪の重さ”を喰う。お前が抱えた痛み、罪、後悔――すべての形を鎖に変える。そして、その重さに押し潰されて死ぬ。それが、お前にふさわしい終わりだ!」
クロが叫ぶ。
「やめて! 零はそんな人じゃない!」
礼司の視線がクロに向く。
「式神風情が、師の罪を擁護するか」
「違う! 零は、呪いを壊してるんじゃない、“救ってる”んだ!」
その言葉に、礼司の眉がわずかに動いた。
「救う……? 人が人を?」
「そうだよ! 零は自分の命を削って、他の人の痛みを祈りに変えてる!それのどこが罪なの!?」
礼司が静かに呟いた。
「……それは、香澄が言っていた言葉だ」
零の視線が動く。
「“痛みは祈りだ”――そう言っていたな、香澄は」
「覚えているのか」
「忘れるものか。あの言葉が、俺を狂わせた。祈りで救われるなら、香澄は死ななかったはずだ!」
零は鎖を引き千切るようにして叫んだ。
「違う!香澄は“死んだ”んじゃない、“生かした”んだ!お前が見ているのは、結果だけだ!」
鎖が一気に光を放ち、弾けた。
爆ぜた光の中で、零が立ち上がる。
背後に、祈り陣の紋が浮かぶ。
「お前の鎖は“報い”を縛る術だ。だが俺の祈りは“赦し”を解く術だ!」
零が印を結び、掌を突き出す。
「――“祈縁・反呪の印”。」
空気が震え、鎖が光に変わっていく。
礼司の瞳に一瞬の動揺が走った。
「……お前、その術式――!」
零の声が静かに重なる。
「香澄が残した“最後の術”。“呪いを祈りに還す”ための、唯一の方法だ」
風が唸り、光が夜を照らした。
礼司の鎖が完全に消え、二人の間に静寂が落ちた。
礼司は息を荒げ、
それでも瞳の奥に微かな笑みを浮かべた。
「……やはり、お前が“継いだ”のか。香澄の“祈りの理”を」
「そうだ。お前が“報い”を選んだように、俺は“赦し”を選んだ」
礼司は杖を下ろし、
長く息を吐いた。
「……お前の理を、完全には理解できない。だが、香澄の想いがそこにあるなら――それを壊すのは、俺の役目ではないのかもしれんな」
零は静かに言った。
「理は壊すものではない。重ねるものだ」
礼司の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「……昔のままだな、零」
零は微笑み返した。
「お前もな」
雷雲が遠ざかり、夜空が晴れていく。
屋上に、春の月が姿を見せた。
礼司がその月を見上げながら呟いた。
「香澄が見た月も、こんな色だったな」
「そうだ。……あの日も、雨の後だった」
クロが零の隣に寄り添う。
礼司はゆっくりと踵を返した。
「零。お前の祈りが、いつか本当の救いになるなら――その時は、俺も“呪い”を手放せるだろう」
零はその背中を見送りながら、
静かに言った。
「その日が来るまで、俺は祈り続ける」
礼司の姿が闇に溶けて消える。
クロがぽつりと呟いた。
「……零、あの人、少し泣いてた」
「涙は、祈りの始まりだ」
零は空を見上げる。
月が静かに光を落とし、
夜風が優しく頬を撫でた。




