第八話 呪い屋殺し ― 前半 ―
――その夜、風が止んだ。
街の明かりは雨雲に閉ざされ、
黒猫呪術代行事務所の窓から覗く外は、まるで息を潜めたように静かだった。
クロが背を丸めて毛を逆立てる。
「零……空気が重い。まるで、誰かが“呪い”を撒いてるみたい」
零は机に手を置いたまま、目を閉じた。
「感じる。……これは、“術者”の気配だ。それも、かなりの熟練者だな」
クロの瞳が細くなる。
「同業者?」
「いや――“敵”だ」
零が言い終えるより早く、
事務所の扉が、音もなく開いた。
冷たい風とともに、ひとりの男が立っていた。
長い外套に身を包み、顔の半分を仮面で覆っている。
その目は、硝子のように無感情だった。
「……黒乃零、だな」
「そうだ。お前は?」
「“呪い屋狩り”の名で通っている」
クロが唸り声を上げる。
「呪い屋狩り……!」
男は淡々と続けた。
「お前の噂は聞いている。呪いを“祈り”に変えると豪語する異端の呪術師。――だから殺しに来た」
零は微かに笑う。
「殺す理由がそれだけなら、ずいぶんと安い命だな」
「理由なら他にもある。お前のやり方は、“呪いの理”を壊す。呪いとは人の怨念、報いそのもの。それを“祈り”などという歪んだ形に変えることは、神に対する冒涜だ」
「神、か。……お前の信じる“神”は、憎しみの神か?」
「人の痛みを正しく裁くのは、痛みだけだ。“赦し”や“祈り”など、綺麗事だ」
男の声は低く、冷たい雨のようだった。
「お前が救ってきた者たちは、本当に救われたのか?罪を“祈り”で洗い流すなど、欺瞞だ。お前の術は“贖罪を奪う”だけだ」
零は黙って立ち上がった。
その瞳には、怒りでも恐怖でもない、
静かな光が宿っている。
「……お前の言うことにも、一理はある。だが俺は、呪いを消しているわけではない。“形を変えて残している”だけだ」
「形を変える?」
「呪いは、人の心が生み出した祈りの裏側だ。その形を変えることができれば、人はもう一度歩き出せる。――それが、俺の仕事だ」
男は冷笑した。
「戯言だ。“呪い”に善も悪もない。あるのは“対価”だけだ」
零は一歩、前に出た。
「では、俺とお前の“理”を賭けよう。呪いを祈りに変える力と、呪いを呪いのまま貫く力――どちらが人を救うか」
男が指を鳴らすと、
部屋の空気が一瞬で変わった。
床の影が広がり、黒い手のように零の足元を掴む。
クロが叫ぶ。
「零っ!」
「動くな、クロ。……これは“影縛り”だ」
零の足元の影が形を変え、無数の瞳を開く。
男が低く呪を唱える。
「――“憎悪は骨となり、名を喰らえ”。」
床から伸びる手が零の喉を掴みかけた瞬間、
零は掌を開き、淡い光を放った。
「“祈り返し”」
光が弾け、影の手が霧のように崩れる。
男が目を見開いた。
「……祈りを、反転させた……?」
「お前の呪いは、“怒り”に形を与えただけ。ならば俺は、“想い”に形を与える」
男が歯噛みし、懐から黒い符を投げる。
「ならば試してみろ、“救い”という名の偽善者!」
符が爆ぜ、部屋中に黒煙が広がった。
煙の中から、無数の“影人形”が現れる。
それらは泣き叫びながら、
「どうして」「許せない」「苦しい」と声を上げる。
クロが耳を塞ぐように身を縮める。
「零! これ、人の怨念……全部、実体化してる!」
「“業人形”――魂を喰う術式だ」
零は手のひらに符を浮かべ、
静かに詠唱を始めた。
「――“祈りは血を清め、言葉は魂を癒す”。“この地に縫い留められし声よ、風と共に還れ”。」
光の波が広がり、影人形たちの姿がゆらめく。
だが、完全には消えない。
男の声が響いた。
「お前の祈りは甘い! 赦しは呪いを増やすだけだ!」
零は瞳を閉じ、囁くように答える。
「それでも、俺は信じる。赦しは弱さではない。“生き続ける痛み”を受け入れる強さだ」
その瞬間、
零の周囲に、柔らかな光が立ち上がった。
光は円となり、ゆっくりと広がる。
クロが目を見張る。
「零、それ……“香澄さんの祈り陣”!」
「そうだ。彼女の残した術だ――“再祈陣”。」
光の陣が床に描かれ、影人形たちを包み込む。
怨嗟の声が、次第に静かになっていく。
代わりに、柔らかな“嗚咽”が響いた。
悲しみの声――しかし、それは痛みではなく、解放の泣き声。
男が膝をつき、呆然と呟いた。
「……馬鹿な。呪いが……涙に変わるだと……?」
零は静かに答える。
「呪いも涙も、同じ“想い”だ。ただ、向かう場所が違うだけだ」
光が消え、
部屋には静寂が戻った。
男は荒い息を吐きながら立ち上がり、
震える声で言った。
「……お前の術は、危険だ。人の“怒り”を無力化する。この世から“報い”を奪う」
「報いが必要なら、それは生きることで受ければいい。――死も、呪いも、赦しも、人が“生きている”からこそ意味を持つ」
男は零を睨んだまま、ゆっくりと口元を歪めた。
「……黒乃零。お前の“祈り”がどこまで通じるか――見ものだな」
そして、彼は闇の中へと消えた。
残されたのは、淡い桜の花びらが一枚。
クロが小さく囁く。
「零……あの人、完全に敵ってわけじゃなさそうだったね」
「そうだな。“呪い屋狩り”の理もまた、ひとつの信仰だ。だが、理を掲げる者ほど、闇に飲まれやすい」
零は窓を開け、冷たい夜風を吸い込んだ。
外の街には、まだ雨の匂いが残っている。
クロが静かに言った。
「零。あなた、怖くないの? “呪い屋狩り”に狙われるの」
「怖いさ。だが、恐れなければ祈りは成り立たない。恐れを知らぬ者は、決して人を救えない」
零の横顔を、月の光が照らしていた。
その瞳は静かに揺れながらも、確かな強さを宿していた。




