第七話 約束の燈 ― 後半 ―
夜が明けた。
黒猫呪術代行事務所の空気は、朝露を含んだように静かで清らかだった。
机の上には、昨夜“灯”が置いていった祈り箱が残っている。
彼女は帰る前に「また来ます」と言って笑っていた。
しかし、箱を開けると――中に、手紙が一枚、そっと入っていた。
零はその紙を指先で取り上げた。
インクがまだ乾ききっていないような文字で、
丁寧な筆跡がそこに残っていた。
『黒乃さんへ、この箱を持って帰ろうと思ったけど、やっぱり置いていきます。ここにあるほうが、きっと、たくさんの人の涙を温めてくれると思うから。私はまた来ます。そのときには、おばあちゃんに教えてもらったおまじないを黒猫さんに教えますね。――灯より』
クロが零の肩から覗き込みながら、
「……かわいい字だね」と囁いた。
零は微笑みながら指で紙をなぞった。
「そうだな。この字には、迷いがない。まっすぐに、誰かを想う筆跡だ」
クロが首を傾げた。
「灯ちゃん、また来てくれるかな」
「……ああ。だが――」
零の視線が、窓の外に移る。
街の向こうに薄く靄がかかっていた。
「彼女が次に来る時、それは“人として”ではないかもしれない」
クロは少し驚いた表情を浮かべた。
「どういうこと?」
「この箱を見ろ。彼女が触れていた場所だけ、光が強く残っている。“祈りの継承者”は、時に“祈りそのもの”になる」
クロの瞳が揺れた。
「……つまり、灯ちゃんの魂が、“祈りの灯”になる?」
「そうだ。彼女はもう、“次の光”に選ばれたのかもしれない」
⸻その日の午後、零は久しぶりに外に出た。
春風が街を包み、桜の花びらが流れていく。
クロは零の肩の上で、しっぽをふわふわと揺らしている。
「ねぇ零、久しぶりの散歩だね」
「ああ。雨続きだったからな。少しは外の風も感じておきたくなった」
二人が歩いた先に、小さな公園があった。
ブランコの横で、見覚えのある後ろ姿が目に留まる。
桜色のワンピース。黒髪。
――灯。
「……灯?」
零が声をかけると、少女は振り返り、微笑んだ。
「黒乃さん。黒猫さん。会いに来ました」
クロが飛び降りて駆け寄る。
「本当に来たんだね!」
灯は少し照れたように笑った。
「うん。もう一度、お礼を言いたくて」
零が穏やかに言う。
「礼なら、もう十分もらった。君が笑っていることが、何よりの返礼だ」
灯は頷き、そっと箱を差し出した。
「おばあちゃんのおまじない、教えてあげます」
「おまじない?」
クロが首を傾げる。
灯は箱の上に両手を重ね、
小さく口の中で言葉を唱えた。
「――悲しいことがあっても、“さようなら”を言わないで。また会いたいと思う心が、次の春を呼ぶから」
零とクロはその声に息を呑んだ。
言葉の響きが風に乗り、桜の花びらを揺らす。
その光景は、まるで祈りそのものだった。
灯が笑って言う。
「おばあちゃん、言ってたんです。“これは別れの呪いじゃない、再会の約束だ”って」
クロの目が潤む。
「……素敵なおまじないだね」
零も頷いた。
「“祈りの理”そのものだ。別れは呪いではなく、“約束の予兆”」
灯は嬉しそうに微笑み、
「私、もう泣かないって決めたんです。泣くときは、ちゃんと笑えるまで泣くって」
「いい決意だ」
零が頷くと、灯は少しだけ視線を落とした。
「黒乃さん……」
「なんだ」
「あなたの涙も、きっと、誰かの祈りになります」
零の胸の奥で、何かが静かに震えた。
香澄――あの日の記憶の中で言われた言葉が重なる。
――“あなたの痛みは、誰かを生かす”
零は小さく微笑んだ。
「……ありがとう、灯」
その瞬間。
風が強く吹き、花びらが舞い上がった。
クロが思わず目を閉じる。
風が収まって開けたその先――
灯の姿は、もうなかった。
ただ、ブランコの上に、あの祈り箱が残っていた。
箱の表面には新しい紋様が浮かんでいる。
――“燈”の字。
クロが震える声で言った。
「……零、これ」
零は静かに箱を拾い上げた。
箱の中には、たった一枚の花びら。
そして、微かに灯の声が残っていた。
「さようなら、じゃないですよ。また、春に。」
クロの瞳に涙が溜まる。
零は空を見上げ、静かに目を閉じた。
「……ああ。春に、また会おう」
事務所に戻ると、窓辺に春の光が差していた。
机の上に置かれた祈り箱が淡く光を放つ。
クロがその前に座り、ぽつりと呟いた。
「ねぇ、零。灯ちゃん、もう“人間”じゃなくなっちゃったのかな」
「そうかもしれない」
零はゆっくりと答える。
「だが、人であることだけが“生きる”ではない。彼女は“祈り”としてこの世界に残った」
クロが涙を拭いながら笑う。
「そっか……じゃあ、灯ちゃんは、もう寂しくないね」
零は頷く。
「祈りに孤独はない。想い続ける限り、誰かと繋がっている」
静かな時間が流れた。
風が窓を鳴らし、光が部屋を撫でる。
机の上の蝋燭が小さく揺れ、
炎の中に、灯の笑顔が一瞬だけ浮かんだように見えた。
クロが小さく囁く。
「……零。灯ちゃん、香澄さんに似てたね」
零は目を閉じ、微かに微笑んだ。
「ああ。あの瞳も、声の響きも――まるで、香澄の“祈り”が形を変えて生まれたようだった」
「じゃあ、また春が来たら……」
「そうだ。また“約束の灯”が、この場所を照らすだろう」
零は窓を開けた。
春風が入り込み、光が室内を満たす。
クロが目を細め、尻尾を揺らした。
「ねぇ、零。“祈り”って、永遠に続くのかな」
「永遠かどうかはわからない。だが、“誰かが願う限り”終わらない。祈りは形を変え、時を超えて、人の心に残る」
クロが小さく笑い、
「うん……それなら、あたしたちの仕事も、ずっと続くね」
零は頷いた。
「そうだな。呪いがある限り、祈りも生まれる」
光の中、零は祈り箱にそっと手を置いた。
箱の中で、小さな音が響く。
――ちりん。
それは、春風の鈴のような音だった。
零は目を閉じ、静かに呟いた。
「“約束の灯”よ。次の春も、この場所を照らしてくれ」
その声に応えるように、
窓から一枚の花びらが舞い込み、
蝋燭の炎の中で、柔らかく光って消えた。




