第七話 約束の燈 ― 中半 ―
翌朝。
雨は完全に上がり、空は透き通るような青だった。
窓から射し込む光が、薄く揺れるカーテンを透かして床を照らす。
その上で、黒猫クロが大きく伸びをしてあくびをした。
「……んー、いい天気。昨日までの雨が嘘みたいだね」
机の向こうで書類をまとめていた零が、
小さく頷きながら答える。
「春は、雨と晴れを繰り返して少しずつ強くなる。人の心と似ている」
「ふふっ、詩人みたい」
「詩を書く趣味はないがな」
そんな穏やかな会話の中で、ソファの上の少女――灯が、
小さく身体を動かした。
「……おはようございます」
零は振り返り、柔らかい声で応じた。
「おはよう。よく眠れたか」
「はい……すごく、いい夢を見ました」
クロがぴょんと机から降り、彼女の足元まで駆け寄る。
「どんな夢だったの?」
灯は少し考えるように瞳を細めた。
「……おばあちゃんと、一緒に歩いてました。山の上の、桜の咲く道です。おばあちゃんが言いました。“ありがとう、灯。あとは、あなたが生きる番よ”って」
零の表情がわずかに柔らかくなる。
「それは、“祈りが届いた証”だ」
灯は少し不思議そうに首を傾げた。
「祈りが……届いた?」
「そうだ。お前が昨日込めた“悲しみが笑顔に変わりますように”という願いが、確かに形になった。綾女の魂は、それを見届けて安らいだのだ」
灯は小さく息を呑み、そっと箱を胸に抱きしめた。
「……じゃあ、おばあちゃん、もう痛くないんだね」
「痛みは消えない。だが、それは“祈りの痛み”に変わった。人を思う痛みは、決して悪ではない」
クロが尾を揺らしながら言った。
「ねぇ灯。もしまた誰かが泣いていたら、その箱を少し開けてみて。きっと、優しい風が吹くから」
「……はい。ありがとう、黒猫さん」
昼下がり。
事務所の外は、春の光に包まれていた。
窓辺には、小さな影が二つ。
零と灯が並んで外を眺めている。
クロは机の上で丸まりながら、ゆらゆらと尻尾を動かしていた。
「……黒乃さん」
「なんだ」
「この場所って、不思議ですね。外から見ると普通のビルなのに、中は、なんだか“夢の中”みたい」
零は少しだけ笑った。
「そう見えるのは、君が強い想いを持ってここに来たからだ。黒猫呪術代行事務所は、想いが導く場所だ。“助けたい”という心がなければ、扉は見えない」
灯はその言葉を聞いて、小さく頷いた。
「……じゃあ、私、助けたかったのかな。おばあちゃんのことも、あの箱の中の誰かのことも」
「きっとそうだ。それが“灯”という名の意味でもある」
窓の外で、桜の花びらが風に舞った。
零はその光景を見ながら、
“春”という季節の持つ不思議な力を思っていた。
別れと出会いを、同じ手の中に抱く季節。
祈りと呪いが同じ根を持つように、
悲しみの中にこそ、再生がある。
午後になり、灯は帰る支度を始めた。
クロが名残惜しそうに彼女のスカートの裾をくわえる。
「もう帰っちゃうの?」
灯は笑ってクロの頭を撫でた。
「うん。お母さんが心配するから。でも、また来てもいいですか?」
「もちろん。お前が誰かの涙を見た時、その祈りを箱に込めたら、いつでもここに帰って来られる」
「本当?」
「ああ。黒猫は嘘をつかない」
クロは胸を張って言った。
「そうだよ!あたしたちは約束は破らないから!」
灯は少し照れたように笑い、
箱を胸に抱いて言った。
「約束、ですね」
零は頷いた。
「――ああ、“約束の灯”として」
少女の足音が階段を降りていく。
扉のベルが鳴り、春風が一瞬だけ吹き込んだ。
その風が、机の上の書類をそっと揺らした。
クロが窓辺に飛び乗り、外を覗き込む。
「……行っちゃったね」
零は静かに頷く。
「行かせてやらなければ。祈りを継ぐ者は、留まってはならない」
「うん……でも、ちょっと寂しいね」
「それもまた、祈りの一部だ」
零は窓の外を見つめた。
灯の小さな背中が、角を曲がって見えなくなる。
その瞬間、空の雲が切れ、
光が差し込んだ。
クロが目を細める。
「零、見て。光の中に……!」
その光の中に、一瞬だけ、綾女の姿が見えた。
彼女は優しく微笑み、
その手に抱いた祈り箱を胸に当てながら消えていった。
零は小さく頭を下げた。
「……ありがとう、神崎綾女」
クロがぽつりと呟いた。
「ねぇ、零。綾女さん、最初の“祈り箱”を作った時、どんな気持ちだったんだろうね」
「恐らく、“守りたい”という想いだ。呪いの連鎖を断つには、憎しみを封じるのではなく、“愛の形に変える”しかなかった」
クロはしばらく黙り、
やがて小さな声で言った。
「ねぇ、零。あなたも、誰かを“愛して”た?」
零は少し目を伏せた。
「……ああ。だが、その愛は、今では痛みとして残っている」
「香澄さん、でしょ」
零は驚かずに頷いた。
「お前は、なんでも知っているな」
「だって、あたし、あなたの“記憶の傍”にいるから」
零は小さく笑い、クロの頭を撫でた。
「……それでもいい。痛みがある限り、俺は人でいられる」
夜。
事務所の灯がひとつ、ふっと揺れた。
零はその光を見上げる。
「クロ……見えるか?」
「うん。あれ、“灯”の祈りだよ。ほら、窓の外にも……」
窓の外に、無数の小さな光が浮かんでいた。
蛍のように淡く揺れ、街の上を漂っている。
零は静かに呟いた。
「……あれは、“祈り箱”の欠片だ。灯の願いが、風に溶けて人の心に届いている」
クロは目を細め、
「綺麗……」と呟いた。
零は立ち上がり、窓を少し開けた。
夜風が入り、光がひとつ、室内へと流れ込む。
それは蝋燭の炎に触れ、
淡く揺らめいて――消えた。
クロがぽつりと呟く。
「零、これって……奇跡、だね」
「違う。奇跡じゃない。“人の想い”だ」
零はそっと目を閉じ、
その言葉を自分の胸の奥に刻むように呟いた。
「――祈りは、いつだって人が作る。そして、灯が受け継ぐ」




