第七話 約束の燈 ― 前半 ―
春の雨が街を濡らしていた。
黒猫呪術代行事務所の窓には、水滴がゆるやかに流れていく。
ガラス越しに見える景色はぼやけ、まるで夢の中のようだった。
零は湯気の立つカップを手に取り、
机の上で静かに書類を閉じた。
依頼のない朝は、久しぶりだった。
クロが窓辺で尻尾を揺らしながら外を見ている。
「ねぇ、零。なんか、今日の雨、あたたかいね」
「春雨だからな。冬を洗い流す雨とも言われる」
「へぇ……。なんか、悲しいことを全部流してくれるみたい」
零は微笑んだ。
「お前がそう感じるなら、きっとそうなんだろう」
クロはにっこりと笑い、
しばらくして耳をぴくりと動かした。
「ねぇ、零。誰か来るよ」
その言葉とほぼ同時に、
扉のベルが小さく鳴った。
入ってきたのは、傘を抱えた小さな少女だった。
年の頃は十にも満たないだろう。
淡い桜色のワンピースに、長い黒髪。
その手には――あの“祈り箱”が抱えられていた。
「こんにちは」
少女は少し緊張した声で言った。
「ここ、“黒猫の事務所”ですよね」
零は静かに頷いた。
「そうだ。ようこそ。君の名前を教えてくれるか」
「……あかり、です」
「灯か。いい名前だ」
クロが机からひょいと飛び降り、少女の足元に近づいた。
「にゃあ。その箱、見せてくれる?」
灯は少し驚いたように目を丸くしたが、
すぐににっこり笑って箱を差し出した。
それは、以前綾女から受け取った“祈り箱”と同じ形をしていた。
けれど、この箱はわずかに光を放っている。
淡い橙の光――まるで小さな灯火のように。
零は目を細めた。
「その箱、どこで手に入れた?」
「おばあちゃんの家の納屋にありました。おばあちゃんが言ってたんです。“これを持って、黒猫さんに渡しなさい”って」
「おばあちゃんの名前は?」
「神崎……あやめ、です」
クロが小さく息を呑んだ。
「……あの村の、綾女さんの……!」
零は頷いた。
灯は箱を抱きしめるようにして続けた。
「これを渡したら、ね。“きっと心の灯が戻るよ”って。でも、よくわからなくて……」
零は柔らかい声で言った。
「心の灯――いい言葉だな」
「うん。でもね、最近、夢を見るんです。誰かが泣いてる夢。すごく、悲しいのに、あったかい」
零は少女の瞳を見つめた。
その奥には、確かに“誰かの想い”が宿っていた。
その夜。
事務所の明かりは消え、蝋燭の灯だけが部屋を照らしていた。
零は祈り箱を机に置き、クロと共にその前に座っていた。
「零、あの子、もう寝た?」
「ソファで眠っている。長旅だったのだろう。疲れが出た」
クロが尾を丸め、箱の光をじっと見つめる。
「ねぇ、零。この光……。箱の中、誰かの“祈り”が揺れてる」
「俺にも感じる。だがこれは、封じられた“古い想い”ではない。“未来へ託された祈り”だ」
クロが顔を上げた。
「未来への……?」
「そうだ。おそらく、あの神崎綾女が、死の間際に残したものだ。“祟り箱”を“祈り箱”に変えたあの夜――彼女は、次の世代に“祈りを託す”術を施したのだ」
クロは少し寂しげに笑った。
「……すごいね。人って、死んでもまだ“誰かの幸せ”を願えるんだ」
零は頷いた。
「だからこそ、呪いも祈りも、人の心から生まれる。どちらも“誰かを想う力”の形だ」
その時、ソファで眠っていた灯が、夢の中で小さく呟いた。
「……おばあちゃん……ありがとう……」
箱が淡く光り、部屋の空気が柔らかく変わる。
クロが目を丸くする。
「零、これ……!」
「“祈りの覚醒”だ」
箱の蓋が、静かに開いた。
中には、小さな紙片が一枚入っていた。
零はそれをそっと取り出し、広げた。
そこには、滲んだ文字でこう書かれていた。
“この箱を渡した子が、泣かずに笑えるように。どうか、彼女の心に光を。”
クロが小さく息を呑む。
「……綾女さんの、最後の手紙だ」
零は静かに目を閉じた。
「彼女は死を恐れなかった。ただ、“残された命”を心配していた」
灯が目を覚ました。
「……あの、黒乃さん」
「どうした?」
「夢を見ました。おばあちゃんが、笑ってました。“よく来たね”って言ってくれた」
クロが微笑む。
「きっと、ちゃんと届いたんだね」
灯は少し俯いて言った。
「……でも、ひとつだけ、悲しいこと言ってた。“もう、すぐ消えちゃう”って」
零の表情がわずかに陰る。
「“祈りの器”は、使い続ければ形を失う。箱の中の力が、尽きかけているのだ」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「“次の祈り”を宿すことだ」
灯がきょとんとする。
零は優しく微笑んだ。
「君の願いを、この箱に込めるんだ」
「……私の?」
「ああ。おばあちゃんが“灯”という名を選んだのは、きっと“次の光を継ぐ者”という意味だ」
灯は小さく頷き、箱を抱きしめた。
「……じゃあ、お願いしてもいいですか?」
「聞こう」
「みんなが、悲しい時に、ちゃんと泣けますように。泣いたあと、少しでも笑えますように」
その言葉に、クロが目を潤ませた。
「……いい願いだね」
零は静かに詠唱を始めた。
「――“祈りを受け、灯を継ぐ”。“悲しみの涙を光に変えよ”。」
箱の中が温かな光で満ち、
部屋の空気がほんのり桜色に染まる。
灯がそっと目を閉じると、涙が頬を伝い、
その雫が箱の中に落ちた。
瞬間――
箱から柔らかな風が吹き、
灯の髪をふわりと揺らした。
クロがその光景に見惚れたように言った。
「……あったかい。まるで、春の風みたい」
零は小さく頷いた。
「彼女の祈りが、この箱を“生きる器”にした。これで、“祈り箱”は次の世代に繋がる」
灯は嬉しそうに笑った。
「ありがとう、黒乃さん。ありがとう、黒猫さん」
クロが照れくさそうに尻尾を振る。
「にゃっ……どういたしまして!」
その夜遅く。
灯は眠りについた。
零は机の上で、箱を見つめていた。
クロが静かに尋ねる。
「ねぇ零。あの子、またここに来ると思う?」
「わからない。だが、あの子の心に宿った“灯”は消えない。祈りが人を導く限り、再び出会う日もあるだろう」
クロが優しく微笑む。
「そっか。あたしたちの仕事って、呪いを祓うんじゃなくて……」
「“心の灯を、守ること”だ」
蝋燭の炎が静かに揺れた。
窓の外では、雨がやみ、春の月が顔を出している。
零はふと、独り言のように呟いた。
「……灯という名は、やはり“希望”の名だな」
クロが小さく笑う。
「うん。あたしたちが見失いそうな光を、また照らしてくれたんだね」
零は小さく頷いた。
「――そうだ。祈りは、誰かの中で生き続ける」
静かな夜。
小さな“灯”が、確かにそこに息づいていた。




