第八十四話 赤い紙飛行機 ― 後半 ―
影の中心に踏み込んだ瞬間、世界は再び反転した。
風も、音も、色も消える。
ただ──“赤”だけが波打つ空間に、零・クロ・響の三人は放り込まれた。
クロが零の袖にしがみつく。
「ここ……息がしにくい……!なんか……胸が押しつぶされる感じ……!」
零は周囲を冷静に観察し、呟いた。
「これは“死の誘い”そのものの空間。生者が長くいれば精神を削られる。──急ぐぞ。」
視界の奥に、揺らめく“影の男”がいた。
あの子どもを死へ誘った怪異。
灰色のコート、黒く染まった穴のような目。
耳元で囁くような声が響く。
『また来たのか……呪術師……。余計なことを……』
響は震えながらも叫んだ。
「お前……なんで子どもを……!」
怪異はゆっくりと顔を向ける。
『寂しい子ほど……誘いやすい。“会いたい”気持ちは……もっとも純粋な死への道だ。』
クロが怒りで声を震わせた。
「ふざけないでよ……!この子は、生きたかったんだよ!!」
影の男が嗤う。
『生きたかった?違う……“会いたかった”のだ。生者の願いより、死者への想いのほうが強い時──魂は簡単に落ちる。』
響は拳を強く握りしめた。
「……じゃあ……俺が拾った“たすけて”は……!」
『あれは……落ちきれなかった魂の最後の抵抗だ。だが無駄だ。この子は、もう“橋の向こう側”へ行きかけている。』
零は一歩前に出た。
「その橋を折るのが俺の役目だ。」
怪異の影が身じろぎし、足元から無数の黒い手が伸びてくる。
空間全体が、まるで沼のように三人の足を絡め取り始めた。
クロが叫ぶ。
「れ、零っ……!!」
零は冷静に筆を走らせ、瞬時に呪字を空間へ描く。
「“護紋・白火”。」
白い炎が零の周囲を包み、黒い手は焼かれて霧散した。
怪異はそこで初めて焦ったように後ずさる。
『その術……お前……“あの師”の……!!』
零は冷たく言い捨てる。
「名前を出すな。お前ごときが口にしていい名ではない。」
怪異は唸り声を上げ、空間が一気に暗く沈んだ。
『ならば……ここで死ね……!!』
雨のように黒い刃が降り注いだ。
クロが絶叫する。
「零っ!!」
零は筆を振り抜き、紙も媒介なしに空へ呪を刻む。
「“斬呪鎖・展開”。」
黒い鎖が空中で無数に伸び、降り注ぐ刃をすべて絡め取って砕いた。
響はその力に目を見開く。
「……すげえ……なんで紙もないのに……!」
クロがすぐに答える。
「零の技はね……“文字そのものに呪力を込める”の。紙は補助。零なら空間にも書ける……!」
怪異が怒り狂う。
『忌々しい術師よ……!!だが──“本命”は貴様ではない……!』
怪異の黒い影が、空間の奥へ伸びる。
そこに──小さな子どもの影が震えていた。
『お前だ……。母に会いたいのだろう……?もう一歩来れば……会えるぞ……』
子どもの影が、ふらりと歩き出す。
クロは泣きそうな声で叫んだ。
「だめ!!行っちゃだめ!!そこにはお母さんいない!!」
影の子どもは振り返らない。
怪異の声が甘く囁く。
『かわいそうに……あの呪術師たちは、お前を止めているだけだ……本当は……会わせたくないんだ……』
響が走り出す。
「やめろ!!行くなっ!!」
しかし空間が揺れ、響の足元が裂けて深い闇が口を開ける。
クロが悲鳴を上げる。
「響!!」
零は即座に筆を走らせる。
「“封界”。」
闇は閉じ、響は間一髪で引き戻された。
「はぁ……はぁ……あぶね……!」
零は鋭い声で言う。
「響。お前はクロを守れ。この場で素人が動けば死ぬ。」
響は悔しそうに唇を噛み、頷いた。
怪異の影が、子どもの肩に手を伸ばす。
零は筆を構え、呟く。
「……終わりだ。」
黒い空間に、白い文字が浮かび上がる。
「“断呪”。」
瞬間──
筆から放たれた光が一直線に走り、怪異の胴を貫いた。
怪異は裂けるような叫びを上げる。
『ぎ……っ……!!その文字は……禁じられた……“消去の呪”……!』
零は静かに言う。
「お前のように“死を餌にする怪異”こそ、本来の対象だ。」
空間が砕けるように崩れ始める。
怪異の体も、影も、黒い目も──すべてが崩壊していった。
『お……まえ……呪術師……のくせに……魂の……救いなど……』
零は言う。
「違う。“選ばせる”だけだ。生きるか、死ぬかをな。」
怪異は完全に消滅した。
静寂が訪れ、空間に残ったのは──震える子どもの影だけ。
クロはそっと近づき、優しく手を伸ばす。
「ねえ……もう大丈夫だよ。お母さんに会いたい気持ちは、本当に優しい心だよ。でも……“生きて”たら、会える日が来るんだよ。」
子どもの影が、ゆっくりと顔を上げる。
その目には、涙の気配があった。
響が震える声で言う。
「帰ろう……?もうだれも君を傷つけない。俺が、紙飛行機を拾った意味……それが“君を助けること”なら……俺はちゃんと……最後まで届けたい。」
子どもの影は、響の手をぎゅっと握った。
その瞬間、空間に柔らかな光が広がり──
影は、ふっと消えた。
紙飛行機だけが、静かに零の足元に落ちる。
『ありがとう』
小さな字が、一瞬だけ光って消えた。
クロは涙をこぼしながら微笑む。
「……よかった……ね……」
響は日記帳を抱きしめるように、紙飛行機を大切に拾い上げた。
夜風が頬を撫でる。
空き地に立つ三人。
響は涙をこらえながら言った。
「……助けられた……んですよね……」
零は短く頷く。
「これであの子の“死の記録”は消えた。もう紙飛行機は死へ導かない。」
クロは響に笑いかけた。
「君が拾ったから、助かったんだよ。」
響の目に涙が溢れた。
「……よかった……本当に……」
零は背を向け、歩き出す。
「帰るぞ。紙飛行機はもう呪物ではない。持っていても害はない。」
響は深く頭を下げた。
「ありがとう!ありがとう……!!」
クロはにっこり笑い、零の後を追う。
「ねぇ零……今日は絶対、温かいもの食べよ!なんか凄く……胸が熱いよ……!」
零は小さく息をつきながら、夜空を見上げた。
そこには──赤くも、黒くもない。
ただ優しい夜風が吹いていた。




