第八十三話 拾ったスマホの持ち主 ― 後半 ―
死の座標は、音のない世界だった。
黒い霧が胸の奥まで染み込むように冷たく、空気は重液のようにまとわりつき、まるで“生きたまま棺に閉じ込められた”ような圧迫感があった。
クロは少女の姿で零の腕にしがみつき、震える声で呟いた。
「零……あれ……本当に“人間”なの……?」
零は目を細め、仮面の男を見据えた。
「……違う。“今はもう人間ではない”。」
仮面の男はゆっくりと首を傾けた。
白い仮面の目穴からは闇しか見えず、口元はまるで貼りついた笑みのように歪んでいる。
男の背後──
霧の向こうから、誰かのすすり泣く声が響いた。
【……やだ……もう……こわい……】
【……たすけ……て……】
それはスマホ越しに聞いたミオの声だった。
黎央が叫ぶ。
「ミオさん!!どこですか!!返事を!!」
仮面の男はゆっくりと顔を向けた。
首だけが、不自然な角度でねじれる。
ひたり、と一歩踏み出しただけで──
死の座標の霧が、男の足元から波紋のように広がった。
零は筆を構える。
「……来るぞ。」
男は走らない。
ただ“瞬間移動したかのように”距離を詰める。
クロが叫んだ。
「零!!上!!」
零が振り向くより早く、仮面の男は闇の中から“ロープ”を振り下ろしていた。
その軌道は霧すら切り裂く鋭さ。
しかし──
零は筆で空を裂いた。
「“護筆陣”。」
宙に描かれた符が光となり、男のロープを弾き返す。
金属のような音が響き、ロープは地面に叩きつけられた。
黎央は震えながら一歩下がる。
「れ、零さん……あれ……生きてるんですか……?」
零は短く答える。
「“死ねなかった人間”だ。」
クロが息を呑む。
「死ねなかった……?」
零は仮面の男を見据えたまま言う。
「“死の電話”の元は、生前、女性を次々と拉致・監禁し、殺していった連続殺人鬼──“黒面”。」
黎央の顔が青ざめる。
「じゃ……じゃあ……ミオさんはその黒面に……」
零は頷く。
「死の寸前、ミオはスマホだけを外に放り出した。“助けて”と言いながらな。」
クロが震える声で言う。
「じゃあ……ミオさんは……まだ生きてる……?」
「生きている。だが黒面は“死の座標”に取り込まれ、生者を引きずり込んでは殺そうとしている。」
仮面の男がゆっくりと手を伸ばす。
その手には、ミオのブレザーの切れ端が握られていた。
「…………!」
黎央が叫ぶ。
「やめろっ……返せ!!!」
彼は走り出そうとした。
しかし──
零が腕を掴んで止めた。
「死ぬぞ。黒面は人間では倒せない。“呪いの核”を断つしかない。」
クロが不安げに零を見上げる。
「核って……どこにあるの……?」
零は筆先を仮面の男の胸元に向けた。
「仮面の“内側”。そこに黒面が生前最後に“見た顔”が封じられている。」
黎央は息を呑んだ。
「最後に見た顔……?」
「黒面が殺した被害者の中で、たった一人だけ、反撃した女性がいた。その女性が死ぬ瞬間に黒面へ“呪詛”を吐き、呪いが仮面の内側に宿った。」
クロは涙ぐむ。
「その呪いが……ミオさんを引きずったの……?」
「違う。ミオは“黒面に狙われたから”ではなく──」
零は筆を握り直した。
「“黒面を消せる波長を持っていたから”狙われた。」
黎央が愕然とする。
「……だからミオさんは……!」
その時──
霧の奥から、細い手が伸びた。
【……たすけて……】
ミオだった。
制服は破れ、腕には縄の痕。
しかし、まだ息があった。
クロが叫ぶ。
「ミオさん!!」
だがミオの背後に──
仮面の男の影が立っていた。
男が指を鳴らすと、ミオの身体が宙に吊られ、息を詰まらせる。
零は即座に筆を走らせた。
「“呪鎖断ち(じゅさだち)”!」
空間を走った黒い線が、目に見えない縄を切断する。
ミオは崩れ落ち、クロが抱きとめた。
「大丈夫!?ミオさん……!」
【……あ、ありがとう……】
息は荒いが、生きていた。
男はゆっくりと振り向き、零へ“殺意そのもの”を向けた。
黒い霧が、男の体から溢れ始める。
零は一歩前へ。
「終わらせてやる。お前の呪いを。」
仮面の男が一気に襲いかかる——!!
零の筆が走り、空間に黒文字が浮かぶ。
「“封呪・黒雨”。」
空間が震え、黒い雨が逆流するように仮面の男へ降り注ぐ。
男は怯むどころか、咆哮して腕を振り下ろした。
零は筆を横に払った。
「“返刃”。」
見えない刃が男の腕を切り裂き、黒い霧が噴き出す。
クロが叫ぶ。
「零!!仮面を!!仮面を割らなきゃ!!」
「分かっている。」
零は地面に筆を突きつけた。
「──“呪走陣”。」
何重もの円陣が地に展開し、零の速度が爆発的に跳ね上がる。
仮面の男が振り返る前に、零は背後へ移動していた。
「終わりだ。」
零の筆が仮面へ向かって突き刺さる。
が──
男が最後の抵抗のように腕を伸ばす。
一瞬、零が捕まる──と思ったその時。
クロが叫んで飛びついた。
「零を傷つけないでぇっ!!」
クロの叫びに、男の動きが一瞬止まる。
その隙に──
零の筆が仮面の中心へ突き刺さった。
「“破呪”。」
仮面に黒い亀裂が走る。
男が苦しげに叫び声をあげ──
仮面が砕け散った。
黒い霧が渦を巻き、男の姿はゆっくりと霧の中へ溶けていく。
霧の奥から、女性の声が聞こえた。
【……ありがとう……これで……終われる……】
零は静かに目を閉じた。
「安らかに眠れ。」
黒面の怨念は霧となり、消え去った。
霧が薄れ、死の座標が崩れはじめる。
クロがミオを支えながら零に駆け寄る。
「零!出口が……!」
零は頷き、黎央に告げる。
「ミオを連れて走れ。この場所は消える。」
黎央は涙を浮かべながらミオの手を握る。
「ミオさん……無事で……よかった……!」
ミオは弱く微笑んだ。
【……ありがとう……迎えに来てくれて……】
三人は闇の裂け目へ走り込む。
零が最後に振り返ると、消えゆく死の座標の奥──
砕けた仮面の破片が静かに光を失っていた。
零はその光景をただ一度だけ見つめ、闇の外へ飛び出した。
夜の公園に戻った瞬間──
冷たい風が吹き抜けた。
黎央はミオを抱きしめて泣き崩れた。
「ミオさん……ほんとに……生きてて……!」
ミオは弱い声で囁いた。
「……スマホ……ひろってくれて……ありがとう……」
クロはほっとして零に寄り添う。
零はスマホを見つめ、静かに呟いた。
「この呪物は封印する。“死の電話”は今日で終わりだ。」
クロは零の袖を握り、優しく微笑んだ。
「零……ありがとう……」
零はただ一言返した。
「依頼を果たしただけだ。」
だがその横顔は、いつもより少しだけ柔らかかった。




