第八十一話 記憶の抜け落ちる街 ― 後半 ―
灰色の街に、音がなくなった。
風も止み、空気はぬるく湿り、色を失った世界の中で“顔だけの怪異”がゆらりと漂っている。
綺羅は震える手で胸を押さえていた。
「や……やめろ……もう……何も奪わないでくれ……!」
怪異は無数の顔を重ねて笑った。
「奪うよぉ……藤守さん……街の人たちは、みんなそうして“ここに還った”んだから……」
零は前に出て筆を構えた。
「藤守綺羅は、ここには還らない。」
怪異の目がぎょろりと歪み、零に向けられる。
「なら……お前の記憶をもらおうか……黒乃零……お前の記憶は……特に美味しそうだ……」
クロが肩で身を縮める。
「れ、零……気をつけて……!あれ……“見るだけ”で記憶を食われるよ……!」
零は冷静に返す。
「視線で奪うタイプか。やはり面倒だ。」
怪異がざらつく声で笑った。
「見せてよ……零の記憶……一番深いところにある“後悔”……“捨てた相棒”……“殺した仲間”……全部……俺の中で生かしてあげる……!」
クロが息を呑む。
(零の……後悔……?)
零は無表情のままだったが、一瞬だけ、筆の握りが強くなる。
怪異はにじり寄りながら言う。
「藤守綺羅は、いい“容れ物”だよ……街の住人は、皆……
誰かの記憶で“作られた”人間……だから……藤守さんにも、なってもらうんだ……『この街の住人』に……!」
綺羅が震える声で叫んだ。
「いやだ……!俺は……俺でいたい……!」
怪異は舐めるように笑う。
「その“願い”の隙間が、一番おいしいんだよ……」
零は静かに筆を動かした。
「──“遮呪”。」
空気がわずかに波打ち、零と綺羅を包む透明な結界が立ち上がる。
怪異の視線が結界に弾かれるように跳ね返った。
「な……に……?」
零は冷たい声で言う。
「俺の記憶に触れられる存在は、この世にいない。」
怪異は歪んだ顔をより大きく広げ、世界そのものを裂くような嗄れ声をあげた。
次の瞬間──
灰色の街の路地という路地に、無数の“顔” が芽吹いた。
壁、看板、電柱、路面。
すべてが“顔”になり、一斉に綺羅へと笑いかける。
クロが叫ぶ。
「零! ぜんぶ……綺羅くんの記憶を奪う気だよ!!」
零は筆の先をわずかに向ける。
「……分かっている。」
怪異たちが低く囁く。
『かえして……』
『ここに……』
『おまえの“記憶”を……』
綺羅は膝を崩した。
「う……あ……っ……記憶が……抜けていく……!」
クロが零の隣で祈るように叫ぶ。
「零っ!!早く!!」
零は前に出て、静かに筆を構えた。
「……“奪う呪い”には、“返す呪い”を。」
怪異たちがざわりと揺れる。
「え……?」
その瞬間──
零の筆先が、軽く空気を裂くように動いた。
「“返魂紋”。」
空間が震えた。
怪異たちの顔が、一斉に青ざめる。
「や……め……ろ……!その術は……!“奪った者”が持つ資格じゃない……!!」
零の声は静かだ。
「俺は奪わない。ただ──“本来の持ち主に返すだけだ”。」
筆で描いた紋が白く輝き、綺羅の身体に向かって流れ込む。
怪異が絶叫する。
「返すな……!返されたら……私たちが……消える……!!記憶を喰って生きた私たちが……!!もう……ここに……とどまれない……!」
零は淡々と告げた。
「なら消えろ。」
「いやだあああああああ!!!」
人々の顔が一斉に崩れ、灰色の世界が雪のように砕けていく。
綺羅は胸に手を当て、息を荒げながら呟いた。
「……あ……俺の記憶……戻っていく……」
雨のように降り注ぐ“本来の記憶”。
家族の声。
大学の情景。
自分が歩んだ日々の色。
クロはその光景を見て、微笑む。
「綺羅くん……よかった……!」
怪異は最後のひとかけらで囁いた。
『かえして……くれたのか……俺たちの……本当の……名前……』
零は目を閉じた。
「忘れて眠れ。」
怪異は静かに砕け、雨粒のように消えた。
──世界が晴れた。
色が戻り、東区の商店街は、ただの“古びた街”になっていた。
綺羅は涙を流しながら呟く。
「俺……生きてる……俺は……俺のまま……」
クロが綺羅の背をやさしく叩く。
「うん。綺羅くんは綺羅くんだよ。」
零は振り返らず、商店街の出口へ歩き出した。
クロが後ろから尋ねる。
「零……大丈夫……?怪異に“零の後悔”のこと、言われてたけど……」
零は答えず、ただ一言。
「帰るぞ。」
クロはそれ以上聞けなかった。
しかし確かに、零の背はほんの少しだけ重い影をまとっていた。




