第八十一話 記憶の抜け落ちる街 ― 中半 ―
東区へ向かう道は、夕暮れのやわらかな色を失い始めていた。
街灯がまだ点灯しきらない薄闇の中、綺羅は何度も後ろを振り返りながら歩く。
「……すみません、歩くの遅くて……」
クロが零の腕を掴み、綺羅を見つめる。
「だいじょうぶだよ。怖いところに案内してって言われたら、誰でも震えるよ。」
綺羅は苦笑すらできず、小さく頷く。
零は無言で歩き続けていたが、ふと足を止めて言う。
「藤守。最初に“記憶が抜けた”と気づいたのは、いつだ。」
綺羅はしばらく考え、苦しげに答える。
「三週間前です。大学の制作のために街を見て回っていて……初めて東区の旧商店街に入った時でした。」
クロが首を傾げる。
「古い商店街……?」
「はい。でも……奇妙なんです。」
綺羅は震える指で東区の方角を示した。
「地図には載ってるのに、現地に行くと“古さ”がないんです。全部、新品みたいに綺麗で…でも……人だけが、どこか古い。」
零の足が止まる。
「人だけが古い?」
綺羅は大きく頷いた。
「時代劇の中から抜け出してきたみたいな……服装でもなく、雰囲気でもなく……存在そのものが“年輪の狂った木”みたいに歪んでるんです。」
クロの肩が震えた。
「……零……なんか……ひどく嫌な感じがするよ……」
零は眉をわずかに寄せた。
「藤守。どうしてお前だけが、記憶を混ぜ込まれる。」
綺羅は唇を噛む。
「……分かりません。でも……一度、“気づいた”ことがあります。」
零が眼差しを向ける。
「話せ。」
綺羅の声が震える。
「区画の中で、一瞬だけ……『俺じゃない俺』が見えたんです。」
クロが息を呑む。
「え……?」
綺羅は首を振りながら続けた。
「窓ガラスに映ったんです。だけど、そこに映っていた俺は──」
声が掠れる。
「五十代の、別の男でした。」
クロが零の袖を掴む。
「零……これ……綺羅くんの身体が、誰かに“使われてる”ってこと……?」
零は短く頷く。
「可能性は高い。記憶の混入ではなく──“人格の上書き”をされている。」
綺羅は震えながら、ぽつりと呟いた。
「区画に入ると……俺は俺じゃなくなる……でも出ると、また俺に戻る……けど“混ざった記憶”だけは、消えずに残る……これが続いたら……いつか俺は、本物の“俺”を忘れてしまう……」
クロは綺羅の手を優しく握りしめた。
「大丈夫。零がいるから。絶対に綺羅くんの“本当の記憶”を守るよ。」
綺羅の目に、安堵がわずかに灯る。
だが──
次の瞬間。
零が足を止め、空気を切り裂くように言う。
「ここから先だ。」
東区旧商店街の入口。
街灯の光が、一歩先で急に“吸い込まれる”ように消えている。
まるで空間そのものが歪み、色が抜け落ちるように。
クロの猫耳がぴくっと動いた。
「零……見て……あそこ……!」
商店街のシャッター列の向こう。
ぼんやりと揺れる“人の影”が見えた。
綺羅は恐怖で声が出なくなる。
零は一歩踏み出し、呟く。
「“結界が層になっている”。ここはただの怪異ではない。」
クロは一瞬で黒猫に戻り、零の肩へ跳び乗る。
「行こう零……!こわいけど……行かなきゃ!」
零が商店街へ足を踏み入れた瞬間──
──世界が反転した。
視界から色が消え、景色は深い灰色へと落ちる。
空気は湿り、古い木造住宅の匂いが立ち込める。
そして、通りの奥から……
“カラカラ……カラカラ……”
乾いた笑い声が聞こえた。
綺羅が叫ぶ。
「や、やめてくれ……もう聞きたくない……!」
零は筆を構え、前方を睨む。
「出てこい。記憶を喰らう怪異。」
──その瞬間。
通りの奥で、暗闇の中にぽつんと“人の顔”だけが浮かんだ。
ニヤァァァァァ……
ありえないほど横に裂けた口で笑っている。
クロが震えながら叫ぶ。
「れ……零!!あれ……“人”じゃないよ……!!」
怪異はゆっくりと口を開けた。
そして──
「また来てくれたねぇ……藤守さん……」
綺羅の顔が蒼白になる。
零は前に出て、言い放った。
「お前の目的は何だ。藤守綺羅をどうする気だ。」
怪異の輪郭が揺れ、無数の“顔”が滲み出す。
「かえしてもらうだけ……この街から消えた“住民たち”の記憶をねぇ……若い身体は……じゅうぶん代わりになる……」
クロが零の肩で身を縮こまらせる。
「零……記憶じゃない……魂を奪われてるんだよ……!」
零は静かに筆を構えた。
「藤守の記憶は、誰にもやらせない。」
怪異の瞳がぎらりと光る。
「じゃあ……お前から奪おうか……黒乃零……?」
空気がひび割れるように震えた。
零の瞳が鋭く光る。
「……来い。」
灰色の街で、零と怪異の“記憶奪取戦”が始まろうとしていた。




