第八十一話 記憶の抜け落ちる街 ― 前半 ―
黒猫呪術代行事務所の夕方。
淡い橙色の光が窓から差し込み、外は雨も風もない穏やかな夕暮れだった。
そんな静けさを破るように、急ぎ足のノックが扉を叩いた。
──コン、コン、コンッ。
クロは黒猫の姿でソファの上から耳をぴんと立てる。
「零……来るよ。なんか……焦ってる感じ。」
零は筆を置き、短く言う。
「入れ。」
扉が開くと、息を切らせた青年が立っていた。
名は──
藤守 綺羅。
二十代前半、大学院で都市設計を学ぶ青年だ。
綺羅は額の汗を拭いながら、震える声で言った。
「すみません……!ど、どうか……助けてください……!」
クロは零の背にまわり、警戒しつつも首をかしげる。
「落ち着いて……何があったの?」
綺羅は一瞬、迷った。
だが、すぐに顔を歪ませた。
「……俺……“記憶を盗まれてる”んです……!」
零の目がわずかに細くなる。
「詳しく話せ。」
綺羅は深呼吸し、震える手でズボンのポケットを握りしめる。
「……この街の、東区の“一区画”。そこに入ると──毎回、大切な何かが全部消えるんです。名前も、顔も、思い出も……!」
クロの体がぴくっと跳ねた。
「えっ……ぜんぶ……?」
綺羅は頷く。
「でも……その区画を出ると記憶は戻るんです。
だけど……戻った瞬間、いつも違うんです。」
零は椅子に腰を下ろし、静かに言う。
「違う……どういう意味だ。」
綺羅の瞳が、深い恐怖と混乱で揺れた。
「“抜け落ちた記憶”が、俺の中に戻ってくるとき…その記憶じゃない“何か”が、必ず混じって戻るんです。」
クロが息を呑む。
「まざる……?誰の……?」
綺羅は震えながら肩を抱え込んだ。
「分からない……!でもそれは“俺じゃない人間”の記憶なんです……!何十年も前……何十人もの……!」
零の表情は変わらない。
だが筆先が微かに震えた。
「その記憶を混ぜられたとき、何が起きる。」
綺羅の目に涙が滲む。
「……“その区画の住民”が、俺の顔を見て笑うんです。」
クロの毛が逆立つ。
「笑う……って……どういう……?」
綺羅は震える唇で続ける。
「区画に入って記憶が消えるでしょう。その間、俺には何が起きているのか分からない。でも……帰ろうとすると……」
綺羅の声は完全に恐怖へ変わった。
「住民たちは……俺に手を振って──『また来てね、藤守さん』って言うんです……!」
クロは零に寄り添い、小さく震えながら言う。
「零……これ……普通の怪異じゃないよ……すっごく……いやな気配がする……」
零は綺羅をまっすぐ見つめた。
「その区画に入った時の記憶は、戻らないのか。」
綺羅は首を振る。
「全部……真っ白なんです。でも……戻ってきた後の記憶には──その区画で過ごしたはずの時間の痕跡だけが残ってる。」
「痕跡?」
綺羅は震える手でスマホを出す。
画面には、見たことのない老人と綺羅が写っていた。
老人が綺羅の肩を抱き、二人で楽しそうに笑っている写真。
クロが硬直する。
「ひっ……知らないおじいさんとツーショット撮ってる……!」
綺羅は泣きそうな顔で言った。
「俺、この人……全く知らないんです。でも……“写真を撮った記憶だけ”がある……」
部屋の空気がさらに冷えた。
零は静かに立ち上がる。
「綺羅。お前の記憶を抜いたのは“人間”か?」
綺羅は震えながら首を振った。
「……いいえ……“あれ”は……人じゃ……ありません……!」
クロが零に近づき、耳を伏せながら囁く。
「零……まるで……魂をちぎられてるみたいな……そんな気配だよ……」
零は綺羅に向き直り、言い放つ。
「案内しろ。その区画へ行く。」
綺羅はびくりと震えた。
「い、今から……!?でもあそこは……夜になると……!」
零は淡々と言った。
「記憶を喰う怪異は、夜の方が現れやすい。」
クロは一瞬で少女の姿になり、零の腕にしがみつく。
「行くよ、零!こんなひどい呪い……絶対やめさせよう!」
綺羅は震えながら頷き、零たちを案内するため扉に向かった。
零が事務所の灯りを消した瞬間──
窓の外の街は、息をひそめたように静まり返っていた。
そして、東区に向かう路地の奥から、
──“カラカラ……”
誰かの笑い声とも、乾いた風ともつかない音が響いていた。




