外伝15 トイレの花子さん ― 後半 ―
個室の奥にぽつんと座る少女は、“他の影”とは明らかに違った。
静かで、動かない。
その代わり──存在そのものが、まるで穴。
周囲の空気が重力のように引き込まれていく。
クロはゆあを抱えながら震えた。
「……これが……“本物”なの……?」
零は小さく頷き、少女へ一歩近づく。
花子は涙を落としながら、ゆっくりと顔を上げた。
その声は幼く、しかしどこか壊れた響きを持っていた。
「……ゆあちゃん……どうして、来てくれなかったの……?」
ゆあは顔を真っ青にしながら首を振る。
「ち、違う……私、知らない……!あなたのこと、本当に知らないよ……!」
花子の表情がぴたりと止まった。
次の瞬間──
少女の背後から、巨大な影が伸びた。
黒い髪の塊のような影が、床を這い、壁に染み込み、まるで校舎全体に“怒り”を広げていく。
零が筆を握りしめたまま呟く。
「……成り損ないに寄生され続けた結果、“本来の花子”の記憶が歪んでいる。」
クロは困惑する。
「どういうこと……?本物はゆあのこと知らないはずだよね?」
零は静かに続ける。
「集合霊が“ゆあという名前”を利用した。彼女の孤独に、嘘の記憶を与え……依存させた。」
花子の瞳から、涙が落ちて床に黒い痕を作る。
「……ねぇ……ゆあちゃん……友だち、だよね……?」
ゆあは声を失って後ずさる。
花子の黒い影が、ゆあの足首を掴むように伸びた。
「返して……私の……ともだち……」
「ゆあから離れろ。」
零の声は低く、冷たかった。
花子の視線が零へ向く。
「……いや……邪魔しないで……この子は、私の……」
黒い影が膨れ上がり、個室の壁を軋ませた。
零は筆を構え、素早く印を切る。
「“封紋・弍式”。」
床に黒い紋が浮かび、ゆあとクロの周囲を守るように広がった。
影は封紋に触れた瞬間、煙のように弾かれる。
クロが叫ぶ。
「零!!花子が暴走してる!!」
「わかっている。」
零は花子へ一歩踏み出した。
「花子。お前は彼女を友と呼ぶが、本当の“友だち”なら……」
その瞬間。
花子の表情が一変した。
「友だちなんて……いなかった……!!!」
影が爆発するように広がり、天井を叩き割る勢いでトイレ全体を覆った。
クロがゆあをかばうように抱きしめる。
「零!!危ない!!」
しかし零は動じない。
筆を前に突き出し、静かに呟く。
「“友を欲した魂”──その願いを、怨念に利用されただけだ。」
花子の影がうねり、零を飲み込もうと迫る。
零は一気に筆を振り上げる。
「“呪灯解放”。」
薄闇の中で、零の背後に淡い青の灯火が浮かんだ。
揺れる灯は影を切り裂き、花子の全身を照らすように光を広げていく。
花子は目を見開いた。
「……あ、あったかい……?」
零は前に手を差し出した。
「花子。お前はゆあを恨んでいない。寂しいだけだ。……その心の“本当の形”を思い出せ。」
花子は震える。
影が揺らぎ、幼い少女の本当の姿が一瞬だけ浮かび上がった。
泣きじゃくりながら、小さく呟く。
「……こわいの……ひとりが……こわいの……
だれも……迎えに来てくれなかった……」
零は花子の頭に手を伸ばす。
まるで雨に濡れた子どもの髪を撫でるように、
そっと優しく。
花子はびくりと震え──
ゆっくりと泣き出した。
「……こわかった……ずっと……ここに……ひとりだったの……!」
零は静かに答えた。
「もう大丈夫だ。お前は間違っていない。ただ……寂しかっただけだ。」
花子の影が崩れ、霧のように消えていく。
ゆあが涙を浮かべながら手を伸ばした。
「……花子さん……あなた、ずっと……助けてほしかったんだね……」
花子はゆあへ微笑んだ。
最初で最後の、年相応の、優しい笑顔。
「……ありがとう……ゆあちゃん……友だち……って呼んでみたかった……」
零は小さく呟く。
「花子。その願い、叶ったぞ。」
花子の頬を伝う涙が、光の粒となって空へ昇っていく。
少女の姿は薄れ──
最後に、深く頭を下げた。
「……さようなら……」
光が弾け、トイレは、静寂と冷たい空気だけを残した。
クロはゆあを抱きしめたまま呟く。
「……終わった……?」
零は頷く。
「花子はもう、“空”へ還った。二度と現れない。」
ゆあは涙を拭い、零とクロに深く頭を下げた。
「ありがとう……本当に……ありがとう……!」
零は背を向けながら言う。
「礼は不要だ。……ただ──忘れるな。“名前を呼ぶ声”が聞こえても、返事をするな。」
クロはゆあの頭を撫でながら笑った。
「もう大丈夫だよ!これからは明るい声で呼んでくれる友だちを作ろうね!」
ゆあは涙の中で小さく笑った。
校舎に静かな星光が差し込む。
怪異の夜は終わり──
来栖ゆあにも、静かな明日が戻ってきた。




