外伝15 トイレの花子さん ― 中半 ―
学校に到着する頃には、夕焼けは沈み切り、校舎は薄闇に包まれていた。
放課後の静まり返った廊下は、普段なら子供たちの笑い声が響くはずなのに──
その夜は、湿気のある冷たい空気だけが漂っていた。
来栖ゆあは、零とクロ(少女姿)を案内しながら、怯えたように何度も後ろを振り返る。
「こ……この奥です……女子トイレ……三階の……」
クロはゆあの肩を支えるように寄り添い、小さく声をかけた。
「大丈夫。わたしがついてるよ。もう“呼ばれてる感じ”はしない?」
ゆあは、唇を震わせながら答える。
「……ううん……ずっと……呼ばれてます……
“ゆあちゃん、早くおいで”って……声が……耳の奥で……」
クロは眉を寄せた。
「完全にターゲットにされてる……零、これ……普通の花子さんじゃないよ……」
零は無言で頷き、三階へ続く階段を上がる。
足音が階段の壁に反響し、不気味なほど大きく響いた。
三階の廊下は、まるで誰かが息を潜めているような静けさ。
電灯の一つがチカチカと点滅し、その向こうに──
女子トイレの扉だけが、“半開き”になって揺れていた。
クロは息を呑む。
「……誰かが開けたの……?」
「いや。」
零は淡々と言い切る。
「“中のもの”が開けた。」
ゆあの脚が震え、その場に崩れ落ちそうになる。
クロはすぐ側に寄り、ゆあの手を握って支えた。
「ゆあ、大丈夫。ここからは零が前に立つから。
絶対に離れないで。」
零はトイレの入り口に足を踏み入れる。
中はひんやりと冷たい。
まるで冬の夜の墓地のように温度が低い。
湿った空気が頬に張り付き、不規則に水滴が落ちる音だけが響いている。
ポタ…… ポタ……
零は一歩進むごとに、筆の先をわずかに動かして
空気中の“呪の濃度”を測っていた。
「……なるほど。これは“思念の集積”だけではない。誰かが意図的に、花子という怪異を強化している。」
クロが驚く。
「誰かが……作ったってこと……?」
「いや、正確には──“誰かの強い怨念が花子像に合体した”。だから、普通の花子とは別物だ。」
ゆあは震えながら呟く。
「……じゃあ……私の名前を呼んだのは……誰……?」
その瞬間だった。
──コン……コン……コン……
個室のひとつが、外側から叩かれた。
三人とも動きを止める。
続いて──
──コン……コン……コン……
ゆあの手が震え、クロが思わず抱き寄せる。
そして。
“ゆあちゃん──あ・そ・ぼ”
声は、個室の中から響いた。
幼い少女のようでありながら、歳の分からない低さが混ざった奇妙な声。
ゆあは耳を塞ぎ、涙をこぼす。
「ひっ……!やだ……また呼ばれた……!」
クロはゆあを守るように前に立った。
零は筆を構え、個室へ静かに歩み寄る。
「出てこい。お前の目的は来栖ゆあだろう。」
コン……コン……
コン……コン……コン……
トイレ全体の扉が一斉に揺れだす。
「うそ……全部……!」
クロが目を見開く。
個室の扉たちは、まるで呼応するように規則的なリズムで叩かれていた。
──ひとつじゃない……
──全部が“花子”を名乗ろうとしている……!
零は冷静に呟く。
「……“集合霊”か。」
クロが息を呑む。
「人の噂や恐怖で増殖した『花子の成り損ない』が一斉に起き上がってるってこと……?」
零は筆を振り下ろそうとした──その瞬間。
真ん中の個室だけが、ゆっくり、ゆっくりと開いた。
ギィ……ギィィ……
闇の奥から、白い手が一本、床を這うように伸びてくる。
そして──
“ゆあちゃん、迎えにきたよ”
今度ははっきりと少女の声が。
しかしその声の裏側に、老人の声、青年の声、女の叫び声、無数の嗄れ声が重なっていた。
クロはゆあを強く抱き寄せる。
「零!!やばいよ!!“本物”が混ざってる!!」
ゆあの足元に影が広がり、彼女を足首から引きずり込もうとする。
ゆあは悲鳴を上げた。
「いやぁぁ!!」
零は迷わず手を伸ばし、ゆあの腕を掴み引き戻す。
「クロ、来栖を離すな。」
クロは少女姿でゆあを抱え込み、背中で零に叫んだ。
「わかってる!!零!!早くあれ何とかして!!」
零は個室の奥を見据え、ゆっくりと筆を構えた。
「……“花子さん”を名乗る怪異。出自を捨て、姿を借り、恐怖に依存する寄生霊──」
筆先に黒い呪が凝縮する。
「まとめて祓う。」
個室の奥で無数の影が蠢き、扉が震え、声が溢れ出す。
“ゆあちゃんゆあちゃんゆあちゃんゆあちゃん”
“あそぼあそぼあそぼあそぼ”
“きたきたきたきた……”
ゆあが耳を塞いで泣き叫ぶ。
クロが叫ぶ。
「零!!お願い!!」
零の筆が光を撒いた。
「“呪風裂斬”。」
刹那──
闇が裂け、影が悲鳴を上げ、花子の名を騙る声が霧散していく。
しかし個室の奥、そのさらに奥。
たった一つだけ、“本物”の気配が残っていた。
涙のような水滴の音とともに──
小さな少女が、ひとり座っていた。
濡れた前髪の隙間から、黒い瞳がゆっくりと零を見た。
「……ゆあちゃん……あそんでくれるの……?」




