第八十二話 夜だけ開く古書店 ― 前半 ―
その日、黒猫呪術代行事務所は、夕暮れ前の静けさに包まれていた。
零は書棚の整理をしており、クロは少女の姿で机の上に突っ伏しながら欠伸をしている。
「……零、今日は依頼こないのかなあ……
久しぶりに静かで眠くなるよ……」
「静かな日が一番いい。依頼がないということは、誰も呪いに追われていないということだ。」
零が淡々と言うと、クロは少しだけ微笑んだ。
「……たしかに。でも、零と一緒にいる時間が長いのは嬉しいよ。」
零は軽くクロの頭を撫でる。
その瞬間──
事務所の扉が控えめに叩かれた。
“コン……コン……”
クロはびくっとして振り向く。
「来た……!」
零が「入れ」と言うと、ゆっくり扉が開いた。
そこに立っていたのは、学生カバンを抱いた高校生の少年だった。
少し背が低く、やつれた頬。
目の下には深いクマがある。
制服は雨にも濡れていないのに、どこか湿った空気を纏っていた。
少年は震える声で言う。
「黒乃零さん……ですか?」
「そうだ。お前が依頼人か。」
少年は深く頭を下げた。
「……助けてください。もう、どうすればいいのか……わからなくて……」
クロが心配そうに近づく。
「大丈夫だよ。座って……ね? 何があったの?」
少年は席に座ると、震える手でカバンから一冊の古い日記帳を取り出した。
表紙には金の箔押しで、こう書かれている。
『未来日記』
クロは眉をひそめた。
「……なにこれ?本の装丁だけ見れば、ただの古いノートに見えるけど……」
少年は深く息を吸い、語り始めた。
「この日記……“夜だけ開く古書店”で買ったんです。通学路の途中、普段は何もない路地に……夜になると突然、古い本屋が現れて……そこで“未来が書かれる日記帳”だって言われて……」
零の目が鋭くなる。
「夜だけ開く古書店……か。」
クロが首をかしげる。
「零、知ってるの?」
「昔からある“呪いの店”だ。客が求めるものを売る代わりに……必ず“代償”を奪う。」
クロが息を呑む。
「その店って……呪われてるの?」
「呪われているというより….“売り物そのものが呪い”だ。」
零が言うと、少年はぎゅっと日記帳を抱えた。
「買った時は……半信半疑でした。でも……最初のページに、“明日の出来事”が書かれていて……全部……本当に、起きて……」
クロは震える声で言う。
「全部現実に……?」
「はい……ページをめくるたびに、次の日のことが書いてあって……どれも避けようとしても、必ずその通りになるんです……!」
零は短く頷く。
「未来を“予言”するのではなく──“強制”する日記だな。」
少年は涙をこらえながら日記を開く。
震える指で指し示したのは……
今朝書かれたばかりの“最終ページ”。
そこには乱れた筆跡で、こう書かれていた。
『三日後 お前は死ぬ』
クロは息を呑んだ。
「三日後って……!そんなの……!」
少年は零にしがみつくように必死で訴える。
「助けてください……!僕、死にたくない……!どうしてこんなものを買ってしまったのか……何がしたかったのか……もう、わからなくて……!」
零は少年の日記帳に触れ、流れる呪気を確かめた。
その瞬間、零の目が細くなる。
「……これは“ただの日記”ではない。書いた者が呪いを込め、持ち主の“運命そのもの”を操作している。」
クロが震える声で言う。
「じゃあ……この日記を書いてるのは……古書店の店主……?」
「いや……違う。」
零は日記の最終ページを開き、指でなぞった。
そこに弱い文字で刻まれた、一言。
『ぼくを助けて』
クロは思わず口を押さえた。
「これ……どういうこと……?」
零は椅子に座り、深く言った。
「この日記には、“二つの筆跡”がある。一つは依頼人の未来を記す“強制の呪い”。もう一つは……呪いの中から救いを求める、“別の魂の叫び”だ。」
クロが震える。
「それって……その日記の中に……誰か閉じ込められてるってこと……?」
零は頷いた。
「“未来日記”は、過去に死んだ誰かの魂を代償として作られる呪物だ。」
少年は青ざめた。
「だ、だれかが……日記の中に……?」
零は静かに言う。
「この呪いの正体は……“助けを求める魂”と“未来を縛る呪い”の二重構造。解くには──“日記の中に引きずり込まれた魂”を見つけ出し、救う必要がある。」
クロが零の袖を握る。
「零……行くの……?」
零は日記帳を開き、微かな呪いの流れを見つめた。
「書かれた未来が絶対になるなら、書かれた“死”も絶対になる。それを壊すには──“日記の核”を潰すしかない。」
クロは不安げに声を震わせた。
「その、日記の核って……?」
零の答えはひどく静かだった。
「──“日記の中に囚われた魂”。その魂が“死んだ理由”を暴き、その悲しみを断たなければ、この呪いは終わらない。」
事務所の灯りが、不気味に揺れた。
窓の外で、夜の気配が静かに近づく。
零は静かに立ち上がった。
「……夜になった。“古書店”が開く時間だ。」
クロが変身し、少女の姿で零の袖を握る。
「行こう……零。この子を、絶対に助ける。」
零は日記を閉じ、依頼人を見た。
「八重樫ひかり。お前の運命は、俺が書き換える。」
そして零は雨の止んだ夜の街へ歩き出した。
“夜だけ開く古書店”へ向かうために。




