第八十話 捻じれた横断歩道 ― 後半 ―
雨が止み、霧が消えた。
夜の街は驚くほど静かで、つい数分前まで歪んでいた横断歩道は、まるで何事もなかったかのように元の形へ戻っていた。
クロはゆっくりと少女が消えていった空間を見つめながら、零の袖をそっとつまむ。
「……零。今、あの子……笑ってたね。」
零は短く頷く。
「未練が晴れた証拠だ。あの少女は“待つ”ことを辞められた。」
クロは胸に手を当て、ふう……と安堵の息をこぼした。
「よかった……。あのまま“ずっと渡れない道”を歩き続けるなんて、かわいそうだよ。」
零は横断歩道の中央に立ち、ついさっきまで“捻じれ”の根源だった白線を見つめた。
すると──
ひたり、と足元に“黒い影”がじわりと滲み出た。
クロが思わず声を上げる。
「えっ……影!? まだ誰か……!」
零は即座にクロを庇い、影を解析するように視線を落とす。
「違う。これは“加害者の残滓”だ。」
黒い影は、すりつぶされたような人の形。
だが、少女を襲ったときのような殺意はない。
ただ──震えている。
恐れ、後悔し、消えたいと願う影。
クロが眉をひそめる。
「……この影、お父さん……なの?」
零は静かに答える。
「本人ではない。“悔恨だけ”が形を保った幻影だ。」
影は零の足元まで近づき、
まるで土下座するように地に伏した。
声はない。
ただ、ずっと謝っているようだった。
クロは複雑そうに影を見つめる。
「……この影も、終わりたいのかな……?」
零は影を一度だけ見下ろし、冷徹ではなく、静かな声音で言った。
「罪は消えない。だが──亡霊を道連れにする権利もない。」
影が震える。
零は筆を抜き、空中に短い呪符を描いた。
「“還影”。──未練の影よ、その場へ還れ。」
呪符がふっと光り、影に吸い込まれる。
影は霧のように薄まり、最後の瞬間、少女に手を伸ばすような形を作り──消えた。
クロは目を閉じ、ぽつりと言う。
「……これでよかったんだよね……?」
零は歩き出しながら言った。
「本来なら“あの影”は死者の道に立ち入れない。
少女の未練に引きずられて生まれた異常だ。消えるのが正しい。」
クロはほっと息をつくと、少女の姿に変わり、零に寄り添う。
「うん……。零の言葉、あの子に届いてよかった。」
零は黙って頷き、夜空を一瞥した。
さっきまで豪雨だったはずの空には、薄い雲の切れ間から星がひとつだけ顔を覗かせていた。
クロが微笑む。
「ねぇ零。……これ、きっと“あの子”がくれた晴れだよ。」
零はその星を見つめ、ぼそりと言う。
「晴れにするのはお前の役目ではない、と言ったはずだ。」
クロが笑う。
「えへへ、でも……うれしいんだもん。」
零は小さくため息をついて歩き出す。
「帰るぞ。雨のあとで道が滑りやすい。」
クロは零の横にぴたりと寄り添い、手をつないだまま、ふわふわと浮くように歩いた。
「零がいるから大丈夫だよ。……ねぇ、帰ったらあったかい飲み物飲もうね。」
零は僅かに肩を緩める。
「好きにしろ。」
その背後──
誰もいない横断歩道の中央で、緑色の小さな光の粒が舞い上がり、星へと溶けていった。
もう二度と捻じれることのない、静かな夜道だけが残されていた。




