第八十話 捻じれた横断歩道 ― 中半 ―
捻じれた白線の上に足を踏み入れた瞬間──
世界が、わずかに“傾いた”。
風が逆流し、霧が渦を巻き、街灯の光が裂けるように揺れる。
クロは零の袖を掴み、息を呑んだ。
「な、なんか……空気がぐにゃってるよ……!」
零は淡々と観察しながら言う。
「空間そのものが“記憶の層”に潜りかけている。
この横断歩道は──現実と死者の記憶の境界だ。」
白線に足を乗せるたび、足元が“沈む”。
地面のはずなのに、靴底が水のように柔らかく沈み込む。
クロは身体を縮こまらせた。
「零……足が……変な感じ……!」
「下を見るな。引き込まれる。」
クロは慌てて顔を上げた。
その時──
さっき中央に立っていた“緑の傘の少女”が、かすかに移動していた。
最初より、零たちのほうに近い。
「えっ……!? 動いてる……!」
クロが声を上げると、少女の傘がぴたりと止まった。
そして、顔が少しだけ上がる。
三日月のように裂けた口が見えた。
笑っているようで、泣いているようで、“待ち続けて喉が枯れた亡霊”の口。
零はクロの前に立つ。
「まだ来るな。あれは“誘っている”。」
少女は、コツ……コツ……と傘の先で白線を叩く。
そのたびに白線がねじれ、歪んだ影が地面に落ちる。
クロは小さくつぶやいた。
「ねえ零……あの子、待ってる誰かって──もしかして……向こう側にいた人?」
零は答えず、向こうの影を見た。
車道の向こう。
街灯のその裏側に、長身の“影だけの男”が立っている。
影はじっと少女を見ている。
そして──
ゆっくり手を上げ、少女に向かって「おいで」とでも言うように腕を伸ばした。
クロはぞっとして叫ぶ。
「だ、だめ!! 行っちゃだめ!!」
少女は震えながら、一歩だけ前へ進む。
コツ……
コツ……
と、ゆっくり。
零の眉が鋭く寄る。
「……あの影。“迎えに来た者”ではないな。」
クロが零にしがみつく。
「えっ?じゃ、じゃあ……あれは……?」
零は静かに呟いた。
「“事故を起こした者”だ。」
クロの顔色が変わる。
「……轢いた人……?」
零は頷く。
「記憶の中で、少女は事故死した。本来なら“加害者の影”はこの世界に入れない。だが──後悔が強すぎると、こうして“死者の道”に囚われる。」
少女が再びコツ……と傘で白線を叩く。
すると──
横断歩道が急に伸び始めた。
信号機までの距離が、どんどん遠ざかっていく。
クロが叫ぶ。
「うそっ!?道が伸びてる!!」
零は分析する。
「少女の“記憶”の中で、彼女は信号を渡りきれなかった。だからこの道は永遠にゴールへ届かない。」
その瞬間、霧の中で少女が小さく呟いた。
「おとうさん……?」
クロの背筋が震えた。
「お父さん……?ねえ零……もしかして……」
「向こうの“影”は父親だろう。事故を起こしたのも……おそらく彼だ。」
少女の手が震え、傘を落としそうになる。
そして──
父の影がまた腕を伸ばした。
まるで、「戻ってこい」と言うように。
だが、声は無い。
声を出そうとすると、影がぐにゃりと崩れる。
クロは悲痛な声を漏らした。
「零……あの子……きっと……ひとりで怖かったんだよ……」
少女の足がまた一歩、零たちへ近づく。
でも、その目は“向こうの影”だけを見ていた。
零は呟いた。
「行こう。」
クロは零の手を握った。
「うん……!」
二人は捻じれた白線の上を進んだ。
少女の真ん前まで。
雨のような霧が視界を歪ませる。
少女が、弱々しく問いかける。
「……おとうさん……迎えに……きてくれたの……?」
返事はない。
影はただ腕を伸ばすだけ。
零は静かに少女へ話しかけた。
「お前の父は、迎えに来たのではない。“許しを乞いに来た”だけだ。」
少女の体が震えた。
「……え……?」
零ははっきりと言う。
「お前を助けたいのではない。自分の罪を消したいだけだ。だから影になってまで“ここ”に来た。」
少女はゆっくり父の影を見つめた。
雨のように震える声で、叫ぶ。
「じゃあ……なんで……なんで私は……!」
その叫びが横断歩道を激しく歪ませた。
白線が裂け、道路の奥が黒い穴のように開く。
クロが零にしがみつく。
「れ、零っ!!」
零は少女の腕を掴み、そのまま抱き寄せる。
「少女よ……お前は、捨てられたのではない。」
少女の大きな黒い穴のような目に、雨粒がぽとりと落ちた。
零は静かに続ける。
「ただ、父親は“現実から逃げた”だけだ。本当に迎えに来る者は──」
クロが続けた。
「あなたを“前へ進ませてくれる人”だよ。」
少女の唇が震えた。
「……前へ……?」
零は頷く。
「真実を見ろ。」
指を鳴らした瞬間──
周囲の霧がぱん、と割れた。
父親の影が崩れ、事故の記憶が鮮明に浮かぶ。
信号を見ずに渡ろうとした父。
それを追いかけた少女。
そして──
母親の叫び。
少女は涙を流し、崩れ落ちそうになる。
「……おとうさん……」
クロがそっと少女の手を握る。
「もう……いいんだよ。あなたは悪くない。」
零は少女の背に手を添えた。
「未練は晴れた。さあ──“雨”から解放されろ。」
少女の身体がふわりと光に包まれる。
濃い霧が少しずつ晴れ、横断歩道の歪みが戻っていく。
少女は泣きながら、微笑んだ。
「ありがとう……さよなら……」
その瞬間、雨が止んだ。
霧が消え、信号は本来の“青”へと戻った。
零は傘を拾って、静かに言った。
「……終わった。」
クロは安心したように零の腕に抱きつく。
「零……よかったね……!」
零はクロの頭に手を置いた。
「行こう。雨が止んだ。」
二人の前で、捻じれていた横断歩道は、ただの静かな夜道に戻っていた。
──死者の未練は、確かに晴れたのだ。




