第八十話 捻じれた横断歩道 ― 前半 ―
夜の街は、ゆっくりと霧に沈んでいくようだった。
街灯の光がぼやけ、車のヘッドライトは光の帯となって湿った空気を切り裂く。
黒猫呪術代行事務所の帰り、零とクロは並んで歩いていた。
「零、今日の夜……なんか空気、変じゃない?」
クロが手すりにそっと触れながら言う。
零は歩みを止めず、淡々と答えた。
「“気配の流れ”が乱れている。ただの霧ではない。」
その時──
ピン……と、張りつめた見えない何かが零の足先を走った。
クロが振り返る。
「今の……なに?」
零は視線を前へ向ける。
霧の中、ぼんやりと信号機の赤が光っていた。
その手前には、誰もいないはずの横断歩道。
だが──
白線が、左右にねじ曲がっていた。
まるで、誰かが上から両端をつかんでひねったように。
道が捻れ、歪み、向こう側の景色がぐらりと揺れる。
クロは目を丸くした。
「えっ……横断歩道って……こんなふうに歪むっけ?」
零は静かに横断歩道へ向かう。
「普通は歪まない。だが──これは“呪力に触れた空間”だ。」
近づくほど、その歪みは顕著になる。
白線はへし折れ、縫い目のように絡み合い、
信号は青でも赤でもない「濁った灰色」を灯していた。
クロは震えた声を出す。
「零……これ、怪異だよね?」
零は一度だけ頷いた。
「“歩いてはいけない横断歩道”……あるいは──“渡る者を別の場所に連れていく道”。」
クロは身を寄せる。
「うそ……こんな場所、街中に……?」
少し考えるように、零は苦い顔をした。
「この街では珍しくない。“悪意”や“後悔”の溜まりやすい三叉路や交差点は、呪いの入り口になりやすい。」
クロは眉を寄せた。
「じゃあ……ここで何か起きたってこと?」
零が答えようとしたその時。
横断歩道の中央に──
緑色の傘を持った少女が、ぼんやりと立っていた。
年齢は小学生くらい。
だが、姿が揺らぎ、輪郭が霧に溶けている。
クロは驚いて声を上げる。
「ま、真ん中に……誰かいる!!」
零はすぐにクロを抱えて後ろへ下がった。
「クロ、絶対に“白線の内側”には入るな。彼女はこの世界の人間ではない。」
少女は動かない。
ただ下を向き、握った傘の先が地面をコツ……コツ……と叩いていた。
そのリズムが、やけに不気味だ。
クロは震えながら問う。
「……あの子、何してるの……?」
零は低く答える。
「“待っている”。――自分を迎えに来る誰かを。」
クロは息を呑む。
「じゃあ……ここで……」
零は静かに言い切った。
「誰かが轢き殺されたか、誰かを待ったまま死亡したか……いずれにせよ、“未練”がこの道を捻じらせている。」
クロは少女の姿から目を離せない。
「零……助けないと……」
「助けられるかは“原因”次第だ。」
零は横断歩道の手前で立ち止まり、霧の向こうへ視線を細めた。
その瞬間。
横断歩道の奥──
車道の向こうで、“もう一人の影”がこちらをじっと見ていた。
大人の影。
背が高い。
だが顔は見えない。
クロが小声で言った。
「ねえ零……向こうにも誰か……」
零はその影を射抜くように睨んだ。
「……あれが“原因”だ。」
影がゆっくりと、首をかしげた。
──来るな。
声にならない声が、雨のように零とクロへ降り注いだ。
横断歩道の白線が、ぎしぎしと音を立てて捻じれる。
クロが叫ぶ。
「零……これ、やばい!!」
零は筆を構えた。
「行くぞ、クロ。捻じれた道の“真ん中”には、必ず答えがある。」
クロは、零の隣に並ぶ。
「……うん。いっしょに行く。」
捻じれた横断歩道が、不気味な呼吸を始めた。
二人は、ゆっくりとその“禁忌の道”へ足を踏み入れた──。




