第七十九話 おやすみの声 ―後半―
闇。
電気は落ち、月明かりすら届かない。
望海の部屋は、まるで“眠ることそのものが呪いになる世界”と化していた。
クロは零の背にしがみつき、肩を震わせていたが、零が右手を少しだけ上げると、それだけでクロは気配を察し、そっと一歩下がった。
零の周囲だけ、淡い呪光がゆらりと灯っている。
まるで筆先が、闇の中の唯一の灯火だった。
影の子供は、その闇の底から浮かび上がるようにして零へと近づいてくる。
──ずる……ずる……
小さな裸足が、床を引きずる音。
そのたびに、望海は喉を押さえてしゃがみ込んだ。
「き、来ないで……お願い……いや……」
影の子供は、ぬるりと望海の方へ顔を向ける。
その“顔の無い闇”が、にやりと笑ったように見えた。
「ねぇ……おねえちゃん……どうして……そんなに泣くの……?」
望海の肩が跳ね上がる。
クロは息を呑み、零の袖を掴みかけたが──
「クロ。触れるな。今は俺の術が最優先だ。」
その一言に従い、クロは拳を握って後ろへ下がる。
影の子供の声は、どこまでも幼く、どこまでも寒かった。
「ないてたよね……ずっと……おひとりで……さみしいよ……ね?」
望海は震えながら首を振る。
「ち、違う……!違う……私は……!」
「ぼくね……ひとりだったの……ずっと……“ねむれないまま”……死んじゃったの……」
クロの目がゆらぎ、胸を押さえる。
(……この子……亡くなる時……誰にも気づかれなかった……?ひとりで……?)
影の子供は望海にそっと手を伸ばした。
空気が、悲しいほど冷たく震える。
「だから……いっしょに……ねよう……?」
望海は涙を流しながら首を振る。
「いや……いやだ……いやだ!!」
影の子供の声が一転して低くなる。
「ねぇ……なんで……?ぼくのこと……すてるの……?」
零が静かに筆を持ち上げた。
その動作はあまりに静かで、あまりに決定的だった。
「捨てたのは望海ではない。」
影の子供が振り返る。
「……え?」
零の声は冷たくも、まっすぐだった。
「お前を捨てたのは“世界”だ。誰にも見つけられず、誰にも助けられず、眠ることも許されず、孤独の中で死んだ。」
クロの胸が痛む。
影の子供の姿がわずかに揺らいだ。
「……ぼく……そんなの……イヤだ……こわいよ……」
零は筆を構えたまま歩み出る。
「だから望海を巻き込んだ。孤独で泣いている気配に惹かれた。お前と同じ“孤独の波”を持っていたからだ。」
影の子供の肩が震えた。
「……じゃあどうすれば……ぼく……ねてもいい……?」
零は紙を広げ、筆を走らせる。
淡い呪光が部屋を照らし、影の子供の輪郭がはっきりしていく。
「“眠れ”。眠れず死んだ魂よ──いまここで、眠りの痛みから解き放つ。」
影の子供は目のない顔で零を見つめる。
「……ねむって……いいの……?」
零は短く頷いた。
「お前は眠るべきだ。もう“おやすみ”と誰にも言えない苦しみは終わりだ。」
影の子供の口から、押し殺したような声が漏れた。
「……おやすみ…………いいの……?」
零は、望海の方を一度振り返り言う。
「望海。お前が言え。この子が求めた“最後の言葉”だ。」
望海は涙で顔を濡らしながらも、ゆっくり立ち上がった。
震える唇を噛みしめ、子供の影を見つめる。
「……おやすみ……ちゃんと……ゆっくり眠ってね……」
その瞬間、影の子供は一度、小さな肩を震わせ──
ぽろ……っと闇の目から涙のような影が落ちた。
「……ありがと……」
零の筆が光を放った。
「──“眠訣”。」
呪の光が影の子供を包む。
黒い影が少しずつ薄れ、輪郭がほどけてゆく。
クロが祈るように胸の前で手を合わせる。
「……ねんねん……ころり……もう……こわくないから……」
影の子供は、微笑んだように見えた。
「……おやすみ……おねえちゃん……ありがとう……」
そして影は静かに消えた。
部屋の空気が、ふっとあたたかくなる。
冬の夜の空気に戻る。
望海は膝から崩れ落ち、泣きながら零に言う。
「ありがとう……本当に……ありがとう……!」
零は筆を収め、淡々と言う。
「二度と“孤独に泣く”な。同じ波を呼べば、また別の霊が寄ってくる。」
望海は涙で顔を濡らしながら何度も頷いた。
クロは少女の姿で零に寄り添い、小さく呟く。
「零……またひとり……救えたね……」
零はクロの頭を軽く撫でた。
「俺が救ったのではない。眠っていいと言ったのは望海だ。」
クロは微笑んだ。
「でも……最後に“眠らせた”のは零だよ。」
零は答えず、外に目を向けた。
夜風は静かで、星がひとつ灯っていた。
“おやすみ”という言葉は、ようやく本来の意味を取り戻していた。




