第七十九話 おやすみの声 ― 中半 ―
望海を連れて、零とクロは事務所を出た。
夜風はひどく冷たく、まるで“来訪者”の気配を運んでいるようだった。
望海の住むマンションへ向かう途中、クロは少女の姿のまま零の袖を掴んで歩いていた。
「零……変だよ。空気が重い……なんか、まとわりつく感じ……」
零は淡々と前を向いたまま答える。
「霊の干渉の特徴だ。あの“声”の主は、すでに望海の生活領域を掌握している。」
望海は零の後ろを歩きながら怯えた声で言った。
「……私、三日前まで、普通に眠れていたんです。でも最初の“おやすみ”が来た日から、部屋の空気が……変わって。」
クロが振り向く。
「望海さん……その子、部屋に“いる”って感じる?」
望海は震える手を胸に当て、ゆっくり頷いた。
「はい……寝ようと電気を消すと、布団の横に“誰かが座る音”がするんです。最初は気のせいだと思ってました……でも……」
彼女は唇を噛む。
「昨夜……腕を掴まれた時……“冷たくて、小さくて、柔らかい手”だったんです……夢じゃありません……」
クロは一瞬で青ざめる。
「零、それって……」
「完全に実体化している。」
零は即答した。
望海の案内で、三階建てアパートの一室へ入る。
中は整頓されており、雑然とした様子はない。
ただ──
“空気が冷たい”。
まるで冷房を強にしているような温度。
クロが零の後ろで小さく呟く。
「……零……やっぱりいるよ。ここ、もう完全に“占領”されてる……」
零は靴を脱ぎ、部屋の中央に立ってゆっくり目を閉じる。
数秒だけ静寂。
そして彼は淡々と言った。
「望海。ベッドに近づくな。あそこが中心だ。」
望海は顔を強張らせた。
「やっぱり……ベッドの横に……?」
「そこが“霊の定位置”だ。」
クロは少女の姿のまま、零の横で身を寄せる。
「零……なんかね……息がしづらい……この感じ、前の“泣く電話”とも違う……もっと……重い……」
零が視線を巡らせる。
部屋の隅。
天井。
テレビの裏。
窓の外。
そして──
最後にベッドを見た。
一瞬で、空気が“凍った”。
「……いるな。」
クロがぞくりと震える。
「どこ!? どこにいるの!?」
零はベッドの横を指差した。
「そこだ。」
望海は息を呑んで口元を押さえた。
「そ……そこ……昨日、腕を……」
零は床に紙を敷き、筆を構えながら説明する。
「まず“呼び出す”。逃げれば追う必要があるが──あれは逃げない。“来る”。」
クロは零の腕を握る。
「れ、零……気をつけて……あの子、きっと……ただの迷子じゃない……」
零は静かに頷くと、紙にすばやく線を走らせた。
「来い。“現形”。」
紙から黒い霧が立ち上り、部屋の空気を震わせる。
その瞬間だった。
ベッドの上の“布団”が──
ぽすん……
と、沈んだ。
まるで“子供が腰を下ろした”ように。
望海の悲鳴が漏れる。
クロは思わず零の背に飛びつく。
「れ……零……いる……!そこに……!」
布団の上で、何もない空間がぽっかり沈んでいる。
そして──
きし……きし……
子供の足音のように、布団がゆっくり歪み始めた。
まるで“歩いている”。
零の目が鋭く光る。
「姿を見ろ、クロ。」
クロは震えながらも、零の後ろから顔を覗かせる。
次の瞬間──
布団の上に、小さな影がゆっくりと形を取った。
人影。
子供。
小さな男の子──
だが、顔は黒い影で覆われ、何も見えない。
その影が、ゆっくり首を傾げた。
「……おやすみ……?」
低い、くぐもった子供の声。
望海は声にならない悲鳴を上げ、壁際まで後退した。
クロは息を止める。
(……この声……電話と同じ……この子が……望海さんを……)
影の子供は、布団からずるりと降りた。
そして零の方へ向き直る。
「ねぇ……どうして……一緒に……寝てくれないの……?」
零は筆先を下げずに言う。
「望海を――離れろ。」
影の子供は、顔のない闇でにやりと笑ったように見えた。
「……やだ。一緒に眠るの。おねえちゃんが……ぼくを呼んだ……」
望海が震える声を上げる。
「わ、私……呼んでない……!呼んでなんか……!」
影の子供は首をかしげた。
「うそだよ。だって……ずっと泣いてた。“眠れないよ”って……」
クロが小さく息を呑む。
(……望海さんの“孤独”につけこまれたんだ……)
影の子供は、ゆっくり腕を広げた。
「ねぇ……おねえちゃん……“いっしょにねよ?”」
望海は泣き叫ぶ。
「いや!!こないで!!」
その瞬間、部屋の灯りがバチンと落ちた。
真っ暗。
影の子供の声だけが響く。
「ねぇ……“おやすみ”って言って?」
零は筆を構え、低く呪を紡ぐ。
「クロ、離れろ。ここからが本番だ。」
クロは零の後ろへ下がり、震える声で叫ぶ。
「零……絶対……負けないで……!」
影の子供が、一歩ずつ“こちらへ”歩きだした。
部屋は完全な闇。
ただし零の周囲だけが“呪術の光”で淡く照らされる。
そして──
零の筆が、静かに、しかし決定的に動いた。




