第七十九話 おやすみの声 ― 前半 ―
黒猫呪術代行事務所の夜は、珍しく静かだった。
時計の針が一定のリズムを刻み、外の通りには車の音ひとつない。
零は机に向かい、古い呪符の解析を進めていた。
丸めた黒猫のクロは、零の隣の座布団で眠っている。
──そのはずだった。
ふいに、クロの耳がぴくりと動く。
「……零、誰か来るよ。」
零は筆の動きを止める。
この時間──深夜一時。
本来なら依頼人が来る時間ではない。
すぐに、事務所の電話機が鳴った。
深夜にも関わらず、やけに“静かな音”で。
零が受話器を取る。
「黒猫呪術代行事務所だ。用件を言え。」
返事はなかった。
ただ──
微かな“寝息”のような音だけが聞こえてくる。
クロが不安そうに身を寄せる。
「……赤ちゃん、みたい……?」
数秒の沈黙。
やがて、電話の向こうから小さな声がした。
「……おやすみ……」
その瞬間、電波がざらつくような雑音が走り、
電話はぷつりと切れた。
クロが震えた声で言う。
「零……いまの……怪異……?」
「断定はできない。しかし“子供の声”は、この時間には不自然だ。」
その時、事務所の扉がノックされた。
“コ、コ、コ……”
弱く、ためらうような音。
クロが思わず少女の姿に変わり、零の背に隠れる。
零はゆっくり扉を開けた。
雨上がりのような湿った空気。
そして、そこに立っていたのは──
若い女性。
顔色は青白く、目の下には深い隈。
手にはスマホを握りしめている。
「夜分に……ごめんなさい……お願い……助けてください……」
震えた声で言う。
「私……“眠れないんです”……毎晩、深夜になると……スマホに……“おやすみ”って、知らない子供の声が届くんです……」
クロが小さく息を飲んだ。
零は彼女を中に招き入れ、椅子に座らせた。
「名前は。」
女性はか細い声で答える。
「……白鳥 望海と申します……」
零は頷き、状況を聞く。
「その声はいつからだ。」
「三日前です……最初は寝る前に、スマホの通知で……“おやすみ……”って……子供の声で。」
「知らない番号からか。」
望海は震えながら首を振る。
「いえ……番号は“存在しない番号”って表示されるんです……でも……それだけじゃなくて……」
零の目が細くなる。
「他にも異変があると。」
望海は唇を噛み、続けた。
「その声が届いた夜は必ず……夢を見るんです……真っ暗な部屋に……小さな男の子がいて……」
クロは零の袖をつかむ。
「零……“夢の干渉”……!」
望海の涙が一粒こぼれる。
「その子が……“おやすみ……一緒に寝よう……”って……」
声が震える。
「そして必ず……私の腕を……小さな手で掴むんです……」
クロが顔を青くする。
「それって……夢じゃなくて、もう……」
零が答える。
「“半実体化した霊”の可能性が高い。」
望海はさらに続ける。
「昨夜は……夢の中じゃなくて……現実の私の布団の上に、誰かが乗って……」
肩を震わせ、望海は叫ぶように言った。
「“一緒に寝よ?”って……耳元で……!」
クロは零の服をきゅっと掴んだ。
零は静かに立ち上がり、望海のスマホを指差す。
「今夜、その“声”が再び来る。」
「原因を突き止める。」
望海は怯えながらも頷く。
クロが不安そうに聞く。
「零……その子供の霊って……望海さんに害を?」
零は否定しなかった。
「幼い霊ほど執着が強い。一度“対象を見つけたら”離れない。」
クロはぎゅっと唇を噛んだ。
望海は涙を拭いながら言った。
「お願いです……もう……眠るのが怖いんです……本当に……助けてください……」
零は落ち着いた声で答えた。
「分かった。今夜、俺とクロが見張る。」
望海は震えながらも安心したように頷いた。
零は窓の外に目を向ける。
外の空は月もなく真っ暗で、どこか“音の無い夜”だった。
クロが小さく呟く。
「ねぇ……零……今日の夜は、きっと……“来る”ね……」
零の目がわずかに光る。
「来るだろう。俺たちが待っていると知れば──必ず。」
そして零は受話器を見つめた。
さっき切れた電話。
“おやすみ”の声。
あれは──
誰に向けて言われたものなのか。
零は静かに呟く。
「今夜が本番だ。クロ、気を抜くな。」
少女の姿のクロは、不安そうに零の手を握った。
「うん……ぜったいに、守ろう……」
夜が、深くなる。
“おやすみの声”が再び届くまで、あとわずかだった。




