第七十三話 黒い手紙と再びの襲撃 ― 前半 ―
賞金首として襲われ続けたあの日から、わずか二日。
黒猫呪術代行事務所は、いつにも増して静かだった。
窓から差し込む光は冷たく、何かが始まる前の緊張だけが空気を満たしている。
零は机に向かい、新しい護符の描写に集中していた。
筆先は迷いなく走り、紙の上に黒い線が滑るように伸びる。
──カリカリ、スッ……
その音が事務所の唯一の生活音となっていた。
クロは膝の上で猫の姿で丸くなり、黄金の瞳だけを半分開いて零の手元をじっと見つめる。
だが、その穏やかさは突然破れた。
コトン……
投函口から、何かが落ちた小さな音。
クロがぴくりと耳を立てる。
零は筆を止めた。
「……クロ。」
クロは頷くように尻尾を揺らし、走って投函口へ向かった。
戻ってきたクロの口には、一通の封筒がくわえられている。
封筒は──
真っ黒。
墨ではない。
紙そのものが黒い。
しかも、光を吸い込むような鈍い質感。
クロは人の姿に変わり、その封筒を両手で零に渡した。
「零……これ……いやな気配がする……」
零は封筒を指先でつまみ、眉をわずかに寄せた。
「……“黒紙”か。」
クロの顔が強張る。
「黒紙って……あの……?呪術師への“敵意”と“宣戦布告”を示す……」
零は頷いた。
「普通の呪術師では作れない。深く、濃い呪詛で紙そのものを漆黒に染めている。」
封を切ると、中から一枚の紙が現れた。
それもまた黒い。
だが、赤い文字が浮き上がっている。
──まるで血を滲ませたように。
クロが身を寄せて読む。
『黒乃零へ
生き残ったとは感心だ。だが──肝心なのはここからだ。お前は俺の“狩り”の対象だ。逃げられると思うな』
文章の最後には、名を伏せる代わりに奇妙な印だけが押されていた。
狐にも蛇にも見える“二重の紋”。
クロは息を呑んだ。
「この紋……見たことない……でも……すごく……いやな……重い……」
零は紙を裏に返す。
裏には、たった一言。
『次は夜だ』
クロの体が震えた。
「……零……狙ってる……零を“夜に”……!」
零は静かに紙を折り、机に置いた。
「……来るなら来い。夜に、相手をしてやる。」
しかし、零の声は珍しく硬かった。
クロはその変化を敏感に察し、零の服を掴んだ。
「ねぇ、零……今回の相手……いつもの呪術師とかじゃないよね……?」
零は静かに答える。
「……“呪術師”ですらない。」
クロは目を見開いた。
「じゃあ……なに……?」
零はゆっくり顔を上げた。
「“呪術狩り”だ。」
クロは血の気を失う。
「呪術……狩り……!?呪術を使う相手だけを殺す……あの……!」
零は続ける。
「呪術界の外側に存在する“異端の処刑人”。呪術を使う者の因果を逆流させて殺す。そのため、普通の呪いが通じない。」
クロは震えながら首を振る。
「そんな……!じゃあ、零の術も……」
零は静かに頷く。
「まともには通らない。だが──方法はある。」
クロは零を強く見上げた。
「零……ほんとうに……戦うの……?」
零はクロの頭を軽く撫でる。
「俺のせいで街に被害が出る前に、事務所の外で片をつける。」
そのとき──
窓ガラスが、コツンッ……
と、軽く叩かれた。
クロが怯えて零の背中に隠れる。
「い、今の……!」
零はゆっくり窓へ近づく。
カーテンを少し開けると──
窓の外に、“赤い手形”が一つ。
まるで外から触れたかのように、べったりと。
クロは震えた声を漏らす。
「零……もう来てる……!!」
零の声は冷たい。
「いや……まだ“挨拶”だ。」
手形がゆっくりと溶けるように消えていく。
それは呪術ではない。
もっと原始的で、もっと危険な“狩りの印”。
零は静かに筆を持ち上げ、クロに告げた。
「クロ。今日は絶対に俺から離れるな。」
クロは涙目で頷く。
「は、離れない……絶対……離れないよ……!」
零の瞳はわずかに細くなり、冷たい光を宿していた。
今まで命を狙った者は多かった。
だが──
今回の敵は、呪術を“狩る側”の怪物。
そして、夜はまだ始まってもいない。




