第三十四話 綺羅の影との対峙 ― 前半 ―
廊下が歪んでいた。
床は波打ち、天井の蛍光灯はぐにゃりと曲がり、世界そのものが黒い液体で満たされていく。
綺羅の影が暴走しているのだ。
零は筆を持ち直し、クロを後ろに庇った。
綺羅は影の中心で倒れ、両手で頭を押さえながら叫んでいる。
「やめて……!やめてよ……!!もう……もう……っ!」
綺羅の声は悲痛だった。
まるで、自分自身の感情に食われるのを必死で拒むように。
クロは涙を浮かべながら零に抱きつく。
「零……!綺羅さんが……壊れちゃう……!」
零は静かに頷いた。
「壊れているのは“影”だ。綺羅ではない」
クロは零の横顔を見る。
その瞳はいつもの冷静さで輝きながらも、怒りと哀しみを含んでいた。
「綺羅の影は、長年積み重ねられた“否定の堆積”だ。本人の感情の渦が形となり、今、死の呪いに引火して暴走している」
クロは小さく息を呑む。
「じゃあ……“呪い”じゃなくて……“綺羅さんの心”が敵なの……?」
零は肯定した。
「本人の心の中で生き続けてきた恐怖、自責、孤独──それが影を作り上げた」
クロは拳を握りしめる。
「絶対に……助ける……!」
零が一歩前へ踏み出すと、影は天井まで伸び、巨大な獣のような形に変貌した。
口を開くように裂け、深い闇の穴が現れる。
『……ァァァァアアアアア……!!』
クロの身体がビクッと震えた。
(……怖い……けど……逃げちゃだめ……)
零はクロの手を取り、優しく押し返す。
「クロ。綺羅の影は“心”だ。心は力で押し潰すものではない」
クロは目を丸くする。
「じゃあ……どうやって戦うの……?」
零の声は、驚くほど穏やかだった。
「“声”だ」
「声……?」
零は頷く。
「否定で育った影は──“肯定”でしか消えない」
クロの胸が熱くなる。
(肯定……それなら……!)
零が影に向かって宣言する。
「芦屋綺羅。お前は──間違っている。だが、罪ではない」
綺羅は震える声で答えた。
「な……に……を……言って……」
零は綺羅の影に筆を向けた。
「お前の影は“死にたい”と叫ぶが、お前自身は違う。助けてほしいと叫んでいる」
綺羅の瞳が揺れる。
「わ、私は……そんな……そんなこと……!」
クロも必死に叫んだ。
「綺羅さん!!本当は……生きたいんだよ!!死にたくないよ!!壊れたくないよ!!ずっとずっと……
『誰かに見つけてほしかった』だけなんでしょう!!?」
綺羅の身体がびくりと跳ねた。
影が一瞬、揺らいだ。
『……ナ……マ……エ……ヲ……ヨ……ンデ……』
クロは涙をこぼしながら叫ぶ。
「綺羅さん!!あなたの名前を、ちゃんと呼ぶよ!!」
クロは震える声で、しかし力強く綺羅に呼びかけた。
「芦屋綺羅!!あなたは……ひとりじゃない!!」
綺羅の目に涙が溢れる。
影は怒ったように咆哮した。
『アアアアアアアアアア!!!!!』
床が割れ、黒い腕が何本も飛び出し、零とクロに襲いかかる。
零は筆を振り下ろした。
「式号──護心結界!!」
白い光がクロと綺羅を包む。
影の腕は光に触れるたびに弾かれ、霧のように薄れていく。
クロは涙をぬぐい、震えながらも綺羅を見つめ続けた。
「綺羅さん……あなたが苦しんできたこと……本当は誰かに“気づいてほしかった”だけなんだよ……!」
綺羅は嗚咽しながら叫ぶ。
「ちがう!!私は……私は……!誰にも……いらなかった……!!家族にも……誰にも……!」
クロは首を横に振る。
「いらなかったんじゃない!!“気づいてもらえなかっただけ”!!それは綺羅さんのせいじゃないよ!!」
綺羅が胸を押さえる。
「やめて……やめてよ……そんな言葉……聞きたく……ない……!」
零は筆を構えたまま、静かに語りかけた。
「綺羅。お前の影は“否定”でできている。だから今……一番欲しくない言葉は──“肯定”だ」
影が苦しむように揺れる。
『……ウ……アアア……』
クロは泣きながら綺羅へ叫んだ。
「綺羅さん!!あなたは……生きてていいんだよ!!」
綺羅の影が大きく波打った。
「わたしは……生きてて……いい……?」
クロは力強く頷く。
「いいよ!!いいに決まってる!!」
影がひび割れた。
零が筆を振り上げ、決めの一撃を走らせる。
「式号──解呪・心救!!」
白い光が影に突き刺さり、闇が弾け飛んだ。
巨大な影は悲鳴をあげ、崩れ、霧のように廊下へ散っていく。
綺羅はその場に崩れ落ち、泣き叫んだ。
「いやだ……死にたく……ない……生きたい……わたし、生きたい……っ!!」
クロは抱きしめた。
「生きていいよ……何度だって言うよ……あなたは、生きていいよ……!」
綺羅は嗚咽しながらクロにしがみついた。
零は静かに二人を見守りながら、影の残滓を確認する。
──綺羅の影は消えた。
──呪いは解けた。
そして、長い時間をかけて固まった心の氷が、ようやく溶け始めていた。




