第三十三話 芦屋綺羅の過去 ― 後半 ―
廊下の照明が消え、世界が闇に沈んだ。
クロの瞳だけが、灯りを求めるように揺れている。
「れ……零……見えない……!」
零は即座にクロを抱き寄せ、片手で印を結んだ。
「式号──灯り火」
零の手元に小さな白い光が生まれ、周囲を淡く照らす。
その光に浮かび上がったのは──
綺羅の足元から這い出す、
黒く濃密な《影》。
それは形を持ち始め、天井まで届くほど巨大に膨らんでいた。
クロは身をすくめた。
「これ……綺羅さんの中の“怨み”が……そのまま形になってる……」
零は筆を構えたまま、綺羅へ向き直る。
「その影を出し続ければ──お前は死ぬ。魂が持たない」
綺羅は微笑んだ。
儚く、痛く、それでいて狂気すら孕んだ笑み。
「……だからいいと、言ったでしょう?私は……もう限界なんです」
クロは泣きそうな声で叫んだ。
「限界でも……!死んでもいいなんて……言っちゃダメ!!」
綺羅はクロを見つめた。
その瞳には、羨望と憧れと嫉妬と絶望が、全部混ざっているようだった。
「あなた……優しい目をしていますね」
綺羅は小さく笑う。
「そんな目で……私は一度も誰かに見られたことがありません」
クロは言葉を失った。
零が一歩前に出る。
「綺羅。過去に何があった?お前が呪いに呑まれるほどの出来事が」
綺羅はその問いに、静かに目を伏せた。
そして──
「……“母”です」
クロが息を呑む。
「お母さん……?」
綺羅の声は凍ったように静か。
「母は……兄だけを愛していました。兄は強い力を持っていたから。家を継ぐ“価値”があったから」
そして、綺羅は胸に手を添える。
「私は……“要らない子”でした。呪術の家で力が弱い子は……ただの失敗作なんです」
クロは震えながら言った。
「そんなの……ひどいよ……!」
「ひどい?あれは当然なんです」
綺羅は微笑んだ。
「私は“影”だった。誰にも見られず、家庭の中に自分の居場所はなかった」
零の眉が僅かに寄った。
クロは胸が痛む。
綺羅は続ける。
「だから……会社に入った時、佐久間さんが言ってくれた言葉が……私の人生で初めての“光”だったんです」
クロは涙を浮かべた。
(ただの……何気ない一言だったのに……それで救われちゃうほど……ずっと孤独だったんだ……)
だが綺羅の声は、次の瞬間、震えだす。
「でも……その光は……私には“強すぎた”。」
綺羅の手が震える。
「幸せそうに笑っているあの人を見るたび──私は“闇”に戻される気がしたんです。結局私は……光の世界にはいけないと」
クロは泣きそうな声で叫んだ。
「そんなことない!!綺羅さんだって……幸せになれたはずだよ!!」
綺羅は首を振る。
「なれません。そして私は、幸福に触れるほど……壊れていったんです」
黒い影が揺れ、綺羅の背を覆う。
綺羅の声が、急に荒んだ。
「だから……!佐久間さんには……“落ちてきて”もらわないといけないんです!!」
クロは立ち上がる。
「違う!!それは違うよ!!誰かを不幸にしても……自分の孤独は埋まらない!!」
綺羅はクロを見つめた。
その瞳に、憎しみでも敵意でもない──
ただ“空虚”だけがあった。
「埋まらなくてもいい。あの人が苦しむ姿を見られるだけで……私は救われる」
クロの心臓が痛む。
(……この人……本当に……壊れてる……壊され続けて……誰にも止めてもらえなくて……ここまで来ちゃったんだ……)
零が前へ出た。
その表情は冷静でありながら、どこか哀しみがあった。
「芦屋綺羅。それは“呪い”ではない」
綺羅は首を傾げる。
「ではなんですか?」
零は筆を構え、静かに告げた。
「“お前自身が、自分を殺しているだけだ”」
綺羅の瞳が大きく揺れる。
クロは息を呑んだ。
「自分を……殺す……?」
零は綺羅の影を指した。
「その影は佐久間誠を呪っているのではない──お前の魂を食っている」
綺羅は後ずさる。
「そんなはず……」
「お前の怨みは“外へ向いていない”。ずっと“自分に向いていた”。佐久間誠は“理由”に使っただけだ」
クロは理解した。
(綺羅さんは……佐久間さんを恨んでるんじゃない……ずっとずっと……自分を恨んできたんだ……)
綺羅の影が大きく揺れた。
まるで怒るように──
まるで泣くように。
『……ナニ……ナニヲ……』
綺羅は苦しそうに目を押さえた。
「やめて……やめて!!違う……私は……私は……!!」
零の声は静かだった。
「違わない。これは“自己呪殺”の影だ」
クロは涙を流しながら叫んだ。
「綺羅さん!!あなた……死にたいなんて、思っていいはずない!!たとえ家族に否定されても……ひとりぼっちでも……命は……命は……!」
綺羅の身体が震え、影が一気に膨れ上がった。
『……ヤメロ……イウナ……イウナ……!!!』
廊下全体が震える。
綺羅は叫んだ。
「黙れ!!私の幸せなんて!!どこにも……ないんだ!!」
影が咆哮した。
零はクロの手を引き、すぐに距離を取る。
「クロ、来るぞ!!」
黒い影が廊下いっぱいに広がり、二人へ襲いかかる。
クロは震えながらも零の後ろに立ち、強く声を張った。
「零!!綺羅さん、絶対……助けよう!!呪いを解くだけじゃなく……!!この人の“苦しさ”を……止めよう!!」
零は筆を構え、クロの言葉に首を頷かせた。
「もちろんだ。呪いを断つだけでは救えない。本当に救うには“心の影”を断つ必要がある」
クロは涙を拭き、震える拳を握った。
「綺羅さん……もう一度、光を見つけてほしい……!!」
零は前へ出る。
「芦屋綺羅。呪いも孤独も──今日で終わらせる」
黒い影が咆哮し、空間そのものが歪む。
綺羅は影に飲まれかけ、嗚咽を漏らすように叫んだ。
「いや……いやぁぁ……!!壊れたくない……でも……でも……!!助けて……誰か……助けてよぉ……!!」
クロの胸がえぐられる。
(綺羅さん……本当は……ずっと……助けを求めてたんだ……!!)
零は一歩前へ踏み出し──
決着の筆を構えた。
“綺羅の影”との戦いが、いよいよ始まる。




