第三十三話 芦屋綺羅の過去 ― 中半 ―
風が止んだ。
マンションの古い廊下は、不自然なほど静かだった。
芦屋綺羅はただ一人、零とクロを真っ直ぐに見つめていた。
涙の跡が残る瞳。
それなのに、声は冷たく濁っている。
「……私の“救い”を……佐久間さんは奪ったのです」
クロは一歩踏み出し、震える声で尋ねた。
「救いって……どういうことなの……?」
綺羅はゆっくりと視線をクロへ移し、淡々と語り始めた。
「あなたは知らないでしょうね。芦屋の家がどんな場所なのか」
零は視線を細めた。
クロは喉がひりつく。
「私は……昔から“弱い子”でした。呪術の家に生まれながら、力は兄より劣り、家族は兄ばかりを見ていました」
綺羅の声は抑揚のないまま、ただ淡々と過去をなぞる。
「出来損ない。いらない子。使い物にならない」
クロは胸を締めつけられた。
(こんな言葉……子どもに言っていいわけない……)
綺羅は微笑すら浮かべず続ける。
「私はいつも、家の隅で文字を書いていました。公式も知らず、呪式も知らず、ただ……自分だけの“言葉”を書いて」
零は静かに頷いた。
「……それが、あの“弱い結界”の正体か」
綺羅は零の言葉に小さく反応したが、否定はしない。
「でも……その言葉を初めて褒めてくれた人がいました」
クロは少し息を呑む。
(……まさか……)
「佐久間さんです」
綺羅は、ほんの少しだけ表情を緩めた。
それは幸福を思い出すような微かな笑み──
しかしすぐに闇に塗りつぶされる。
「会社で初めて会った時、私がメモを書いていたら……
“綺麗な字ですね”って……」
クロは胸が痛くなる。
(それだけで……そんな言葉で……救われるくらい……孤独だったの?)
「私は、あの言葉で……初めて“自分がいてもいい”と思えたんです」
綺羅は笑わない。
ただ事実を述べる。
「でも──それは間違いでした」
クロの眉がぴくりと揺れる。
「間違い……?」
綺羅の声がわずかに震えた。
「佐久間さんは……優しいから。誰にでも優しいから。
私だけに言った言葉じゃなかった」
クロは静かに首を振る。
「それは……綺羅さんが悪いんじゃないよ。優しい人って、そういう人だもん」
「だから……許せなかったんです」
クロは目を見開く。
「許せなかった……?」
綺羅の瞳に、初めて“怨念の光”が宿った。
「私を救った人が、私の手の届かない幸福にいることが」
「幸せそうに、誰かと笑っていることが」
「私の世界には、一度も与えられなかったものを平然と持っていたことが──許せなかった」
クロの喉が詰まる。
(……こんなの……あまりにも……苦しい……)
綺羅の声は、願うようでも怒るようでもなく、ただ静かだった。
「だから……“呪った”。あの人を。失いたくないからじゃない。奪われたからでもない」
綺羅は零の目を見た。
「“私の世界に引きずり込むため”に」
零の瞳が鋭く揺れた。
クロは愕然とした。
「え……?自分の世界に……?」
「ええ。幸せな人間が“私と同じ場所”に落ちてくれたら──私は孤独じゃなくなるんです」
クロは叫びそうになるのを必死に抑えた。
(そんな理由で……人を殺していいわけない……!でも……綺羅さん……孤独すぎる……)
零が一歩、綺羅へ近づく。
「芦屋綺羅。お前の呪いは“歪み”だ」
綺羅は静かに頷く。
「分かっています。私はおかしい。でも──止められない」
「佐久間さんを死なせるまで、私の呪いは終わりません」
クロは必死に声を張った。
「どうして……!どうしてそこまでしなきゃいけないの!?綺羅さん、佐久間さんに救われたんじゃないの!?」
綺羅の目が揺れた。
ほんの一瞬。
悲しみの色が差す。
しかし──
すぐに消えた。
「救われたからこそ、“戻れなくなった”のです」
クロは息を止めた。
「幸せを知ってしまった者は、それを奪われると──
誰よりも深く恨むのです」
風が吹き、綺羅の黒髪が揺れた。
零が冷静に、しかし深く言い放つ。
「……芦屋綺羅。お前は今──“自分自身の呪い”に呑まれている」
綺羅は静かに微笑した。
その微笑みは、涙のように儚かった。
「呑まれてもいい。私の願いは止まらない」
クロの心が張り裂けそうになる。
(この人……本当に壊れちゃってる……でも……孤独のせいで……こんなに苦しんで……)
そのとき。
廊下の奥で、黒い影が“ぬるり”と立ち上がった。
綺羅の背後に寄り添うように。
クロの背筋が凍る。
「あれ……昨日の影と違う……もっと……濃い……!」
零は即座に筆を構える。
「綺羅。お前は今も呪いを流しているな」
綺羅は振り返らない。
「ええ。止めていません」
黒い影が、綺羅の足元から立ちのぼった。
それは──
佐久間だけを狙う影ではない。
“綺羅の内から生まれた影”だった。
クロは声を失う。
(なに……これ……身体の中の“怨み”が……形になってる……!?)
綺羅は静かに告げた。
「次の呪符は──“明日・死ぬ”です」
クロの心臓が跳ねた。
「明日……!?そんなの……もう時間がない……!」
綺羅のまつげが震えた。
「だから今、止めに来たのでしょう……?」
零がゆっくりと筆を構え直す。
綺羅の影が広がり、廊下を黒く染めていく。
魂が震えるほどの呪力。
零は静かに呟いた。
「……綺羅。このままだと、お前が先に死ぬ」
綺羅は悲しげに笑った。
「それでもいい。私の願いが届くなら……死んでもかまわない」
クロは悲鳴をあげた。
「そんなの……違う!!そんなの……間違ってるよ!!」
しかし綺羅は、もうこちらを見ていなかった。
ただ──
壊れた願いだけを抱きしめていた。
廊下の灯りが一斉に落ちた。
真っ暗な中、綺羅の影だけが赤く揺れ続けていた。
“送り主”の影はついに姿を現した。
そして、これが佐久間誠の“最終の死”を告げる前日となる。




