第三十三話 芦屋綺羅の過去 ― 前半 ―
夕暮れの雑踏。
人々が家路を急ぐなか、零とクロは会社を離れ、駅へと向かう細い路地に入っていた。
クロは少女の姿で零の横を歩きながら、ずっと気が重そうに下を向いている。
「……零。綺羅さんって……そんなふうに見えなかったよ」
「見えるわけがない。呪いは“見えない顔”で行う」
クロは零の袖を握りしめた。
「佐久間さん、泣きそうだった……信じたくないって……どうして仲良く話してた人が急に……?」
零は歩みを止め、街灯の下で空を見上げた。
「理由は一つだ。“恨みは、本人が気づかないところで育つ”」
クロはその言葉を噛み締め、顔を上げる。
「綺羅さんの……過去を調べるんだよね?」
「そうだ」
零はスマートフォンを取り出し、佐久間が送ってきた情報を確認する。
綺羅の部署、経歴、入社年度。
最低限の情報だけ。
だが、それでも十分だった。
クロが横から覗き込む。
「……綺羅さん、佐久間さんと同じ時期に異動してきたんだね」
「それが重要だ。呪いは“過去”が発火点になる。
表面に出ずとも、心の奥底に溜まった怨みが形を得る」
クロはため息をついた。
「怨み……か……たしかに、見えないところで溜まるものだよね」
零は僅かに頷いた。
「だからまず、綺羅がどう生きてきたのかを知る必要がある」
夕陽が沈むと同時に、風がひゅう、と路地を抜けていった。
クロは零の手を握り、決意を宿した声で言った。
「……行こう、零。綺羅さんの“心の影”を見つけに」
二人が向かったのは、会社からすこし離れた住宅街の一角。
綺羅が一人暮らしをしている、古いマンション。
外観は綺麗だが、どこかひっそりとした気配がある。
クロは玄関前で小さく首をすくめた。
「……なんか、寒い……風じゃなくて……“気配”の寒さ……」
零は綺羅の部屋の前に立ち、扉を軽く指でなぞった。
その瞬間──
バチッ
指先に微弱な“呪力の火花”が走った。
クロが驚いて声を上げる。
「零!? 大丈夫!?」
零は軽く手を振り、その火花を払った。
「入口に“結界の名残”がある。芦屋家の術式だ」
クロの目が揺れる。
「結界……?じゃあ綺羅さん……やっぱり呪いを知ってる家系……?」
「家に術式が残っているということは、昔から呪術を扱ってきた家族がいたということだ」
零は少し戸惑うように目を細めた。
「しかし──これは妙だ」
「妙?」
「結界が……弱い。幼い子が描いたような線だ」
クロは首を傾げる。
「幼い子……?」
「訓練されていない。呪いの基礎を“感覚で”やっている。正式な継承を受けていない者の術だ」
クロははっと息を飲んだ。
「じゃあ……綺羅さんって……呪術の家系なのに、ちゃんと継がれてないの?」
「可能性は高い」
零はポケットから細く折った紙札を取り出し、
入口に軽く当てる。
紙札がじゅっ……と煙をあげた。
クロが身を引く。
「紙が……溶けた……!」
「弱いが“拒絶の結界”だ。外からの侵入を嫌う」
零は一歩下がり、クロに向いた。
「綺羅は、“呪術の家系にありながら継承されなかった者”かもしれない」
クロは胸がざわつく。
「継承されなかった……つまり、家族から……?」
零は静かに頷く。
「呪術の家ではよくある話だ。力の弱い者は、強い兄弟の陰に追いやられる」
クロは拳を握った。
「強い術師じゃないと家族に認めてもらえない……綺羅さん、そんな環境で育ったの……?」
「可能性が高い。そして──そんな者ほど“歪む”」
クロは零を見上げた。
「歪む……?」
「家族に認められず、呪術を許されず、才能があるのに封じられ、誰にも見られなかった者は──
“身近な幸福”に嫉妬するようになる」
クロの胸がざわつく。
「身近な……幸福……?」
零は言った。
「佐久間誠だ。──“普通の幸福”を持つ者こそ、綺羅にとっては憎む理由になる」
クロは静かに目を伏せた。
(綺羅さん……そんなに……苦しかったの……?)
そのとき。
マンションの廊下の奥から──
“ギィ……”ドアのきしむ音がした。
クロがびくっと肩を震わせる。
「零……誰かいる……」
零は目を細めた。
廊下の奥から、ゆっくりと人影が現れた。
長い黒髪。
白いブラウス。
無表情の顔。
そして──
その腕には買い物袋。
クロは小さく呟いた。
「……あれ……綺羅さん……?」
少女は二人を見つけ、一瞬だけ足を止めた。
その瞳は、恐ろしく静かで、深い湖の底のように濁っていた。
クロは思わず息を呑んだ。
(綺羅さん……心が……何も映してないみたい……)
零は綺羅の視線を受け止め、淡々と問いかけた。
「芦屋綺羅。少し話がある」
綺羅は表情を変えない。
ただ、ゆっくりと口が開いた。
「……あなた方には、関係のないことです」
クロが震えた声で言う。
「佐久間さんを……呪ったの……?どうして……こんなこと……」
綺羅の目がわずかに揺れた。
しかし、その声はあくまで静かだった。
「私の過去を……あなたたちに語る必要はありません」
零は一歩、綺羅へ近づく。
「では聞く。“昨日の影”と“今日の影”──お前が書いた呪符だな?」
綺羅のほほが、わずかに引きつった。
ほんの小さな歪み。
だがそれは──
明確な“反応”だった。
クロは確信した。
(綺羅さん……やっぱり……!)
綺羅は零を見つめ、低く言った。
「……あの人は……知らないのです。私が……どれほど……」
声が揺れた。
怒りか、悲しみか。
そのどちらとも言えない。
零が静かに問う。
「“恨みの理由”を言え」
綺羅は目を伏せた。
そして──
「言っても……無駄です。あの人には、分からない」
その声は、割れそうなほど脆かった。
クロは胸が締めつけられた。
(綺羅さん……こんな声……するんだ……)
零が低い声で呟く。
「お前の恨みは“過去”にある。過去を知らずして呪いは断てない」
綺羅は肩を震わせた。
そして、顔を上げる。
今まで無表情だったその目に──
初めて“色”が灯った。
それは、深い怨念のような、長く溜め込んだ痛みのような。
そして綺羅は言った。
「……あの人は、私の“救い”を奪ったのです」
クロは息を呑む。
「救い……?」
綺羅は涙を浮かべながら微笑んだ。
悲しいほど歪んだ、壊れかけた微笑み。
「私の……唯一の居場所を……佐久間さんが壊したのです」
風が吹いた。
綺羅の黒髪が揺れる。
そして──
零とクロはまだ知らなかった。
佐久間の“知らない罪”。
綺羅の“知られなかった痛み”。
過去の影が、呪いを生み──
そして今、動き出そうとしていることを。




