第三十二話 送り主の影 ― 後半 ―
給湯室の扉がわずかに開き──
その隙間から、赤黒いものが“滴り落ちた”。
床に落ちた影は、まるで生きているかのように震え、ゆっくりと広がっていく。
クロは零の背にほとんどくっつくようにしながら、震える声で囁いた。
「零……これ……昨日の影と、違う……もっと……重い……」
「“送り主の息”が混ざっている。本体の呪力が流れ込んでいる証拠だ」
佐久間は青ざめたまま後ずさった。
影が広がり──
ゆっくりと形を変える。
それは、“人型”だった。
ただし、人の姿とは到底呼べない。
手足は細すぎ、首は不自然に傾き、顔には穴のような黒い空洞が二つ。
口だけが裂けるように横に広がり、そこから黒煙が溢れていた。
『……サァ……カ……マ……サァ……カ……マ……』
佐久間は恐怖で声にならない悲鳴を上げた。
クロは零の袖を強く握る。
「佐久間さんを……呼んでる……狙われてる……!」
零は筆を構えたまま、影の怪異を真正面から見据える。
「“名呼び”か。送り主は直接、名前を鍵にして影を操っているな」
怪異はゆっくりとクロのほうを向いた。
黒い空洞が、クロの姿を映し──
次の瞬間、怪異の首がカクンと傾いた。
まるで、“何かを確認する”ように。
クロの背に悪寒が走る。
「れ、零……あれ……わたしのこと見てる……なんで……?」
零は即答した。
「見えているわけではない。“魂の匂い”を嗅いでいるだけだ。お前は死とは反対の存在だ。だから興味を持った」
クロは胸に手を当て、不安を押し殺す。
怪異は佐久間へ向き直り、声を震わせながら呼び続けた。
『サァ……カ……マ……サァァ……カァァ……マァァ……』
呼ばれるたび、佐久間の身体から“影”がずるりと抜けかける。
佐久間が叫ぶ。
「う……ぐっ……!影が……引っ張られる……!!」
クロが駆け寄り、佐久間の影の上に飛び乗る。
「だめっ!!絶対渡さない!!」
影の動きが一瞬止まった。
怪異の裂けた口が、クロを見て“笑った”。
『……キミ…ジャマ……』
クロが震える。
(……喋った……?意志がある……!?)
零は前へ出て、筆を振った。
「式号──影縫!!」
墨の線が床に落ち、怪異の足元を縫い止める。
怪異は動きを止めたが、黒煙を撒き散らしてなお抵抗している。
零はその反応を見て呟いた。
「強いな……送り主の呪力が濃い……これはただの式ではない」
クロが叫ぶ。
「じゃあ……何……!?」
「“生霊式”だ。送り主が自分の怨念を直接流し込んでいる」
クロは息を呑む。
(生霊……!?じゃあ送り主は、今もどこかでこれを操って……!?)
零は怪異へ一歩踏み出し、筆先を向けた。
「名乗れ」
怪異はぎこちなく首を回し、空洞の目を零に向けた。
『……ナ……ノル……?』
「強要された式なら答えないが、生霊式は従う。“書いた者の名”を言うはずだ」
クロが零の腕を掴む。
「零……危険だよ……!」
零は静かに首を振る。
「送り主を知らずして解くことはできない」
怪異の裂けた口が、ゆっくりと開いた。
『……キ……』
クロが息を呑む。
(“キ”……?昨日聞いた名前と……)
『……キラ……』
クロの目が大きく開かれる。
「綺羅……!」
怪異が続ける──
『……ア……シ……ヤ……アシヤ……キラ……』
「芦屋綺羅……!!?」
佐久間が崩れ落ちる。
「そ……そんな……あの人が……?俺を……?」
クロは信じられないというように叫ぶ。
「なんで!?なんで同じ会社の人が……佐久間さんを呪うの!!?」
怪異が裂けた口で笑った。
『……ウラミ……サァ……カ……マ……オマエ……ジブンデ……シラナイ……』
零の目が鋭く光る。
「“本人が知らない恨み”。芦屋綺羅は、佐久間に“気づかれぬ恨み”を抱いている」
クロは震える。
「そんなの……!理由が分からないと……!!」
怪異は動けないはずなのに、影だけがずるりと延びてきた。
クロの足元へ。
佐久間の影を奪おうとする。
『……ヨコセ……ヨコセ……ヨコセ……!!!』
クロは必死に影を踏みしめた。
「渡さないって言ってるでしょ!!」
零は筆を振り下ろす。
「式号──祓滅!!」
怪異の身体に白光が走り、裂けた口から黒煙が噴き出す。
『ギャアアアアアアアアアッ!!』
怪異の形が崩れ──
影の塵となって消えた。
静寂。
クロはその場にしゃがみこみ、胸に手を当てた。
「はぁ……はぁ……今日の影……昨日より……ずっと強かった……」
零は呼吸を整え、佐久間を支えながら立たせる。
佐久間は涙を零しながら呟いた。
「芦屋さんが……僕を……恨んで……?どうして……?何もしていないのに……!」
零は静かに答えた。
「“何もしていない”が恨みの理由になることもある。だが──今は理由よりも先にやることがある」
クロが顔を上げる。
「送り主を……止める……?」
「いや──今のままでは止められない」
クロが不安に揺れる。
「じゃあどうするの……?」
零の答えはただ一つ。
「“芦屋綺羅の過去”を知る。恨みの根は必ず“過去”にある」
クロは小さく頷く。
「うん……零と一緒に……調べる」
零は静かに言った。
「綺羅が佐久間誠を呪う理由。それを知らなければ──呪いは終わらない」
外はすでに夕暮れ。
暗く沈む空の下で、“送り主”の影は静かに笑っている。
芦屋綺羅の声が、誰もいない闇の路地に響いた。
『次は……二日後に死ぬ、だね』
物語は、新たな段階へ入る。




