第三十二話 送り主の影 ― 中半 ―
佐久間誠の勤める会社──
灰色の外壁に覆われた中規模のオフィスビル。
朝の出勤時間にもかかわらず、空気はどこか冷たく、社員たちの足取りは重い。
クロは少女の姿のまま、零の後ろに小さくついて歩く。
「ねぇ零……なんだか、嫌な感じ……空気が濁ってる……」
「死の気配を引きずったままだからだ。ここで呪符が開かれた影響が残っている」
自動ドアが開く瞬間、クロの背筋にぞわりと冷気が走った。
(……来てる……なんか……昨日のとは違う……
もっとドロッとしてる……)
零は受付に軽く会釈し、エレベーターへ向かった。
七階──佐久間の部署のフロアに着くと、すでに数人の社員が慌ただしく走り回っていた。
クロは小声で呟いた。
「……騒がしいね」
「理由は一つだろう」
零が歩みを進めると、そこには佐久間が立っていた。
彼は青ざめた顔のまま、何度もロッカーを確認している。
「零さん……!ま、また……です……!」
震える手から差し出されたのは──
新しい呪符。
昨日のものと同じ赤い線。
同じ紙質。
同じ癖。
しかし、書かれた言葉だけが違った。
『三日後に死ぬ』
クロは思わず声を上げた。
「ちょ、ちょっと!!七日後じゃなくて……“三日後”に短くなってる……!」
零は無言で紙を広げる。
赤い線が滲むように揺れ、紙の表面がまるで呼吸しているかのようだった。
「……“加速”しているな」
「加速……?」
「死の固定符には本来段階がある。だが送り主は強引に“死の日時を短くする術”を使っている」
クロは息を呑んだ。
「そんなことできるの……?」
「できる。ただし、書いた者も並の呪術師ではない」
佐久間は頭を抱えた。
「ど、どうすれば……昨日より強いなら……今度こそ……!」
零は静かに紙を折りたたんで返した。
「安心しろ。今日の呪いは“まだ”始まっていない。呪符は読まなければ効力を持たない」
佐久間が震えながら言う。
「じゃ、じゃあ……読んじゃった僕は……もう……」
クロが腕を掴んで制した。
「まだ死なせないよっ!!絶対に、零が守るから!!」
零も短く頷く。
「だが──送り主が呪符だけを仕込むはずがない。“直接仕掛け”が必ずある」
クロは周囲を見回す。
「直接仕掛け……もう別の“罠”があるってこと……?」
「そうだ。第二の呪いは、本人の行動を利用する。例えば──“場所”。」
零はぐるりとフロアを見渡した。
ロッカーの上。
蛍光灯の影。
プリンターの下。
観葉植物の裏。
そのどれもに、わずかな“不自然な揺れ”があった。
クロには見える。
(……この部屋全体が……呼吸してるみたい……
何かが動いてる……)
零が呟く。
「フロアに“影のつなぎ目”が増えている。昨日の影より濃い。──依り代がある」
佐久間が震える声で言う。
「い、よりしろ……?そんなもの……会社に……?」
クロがはっとした。
「ねぇ零……!ここって……人がいっぱい出入りするよね?」
「そうだ。だからこそ“紛れ込ませやすい”。送り主は昨日の呪いが失敗すると分かって、今日の分をすでに仕込んでいた」
零の視線が一点で止まった。
フロアの隅。
給湯室の前。
──赤黒い“影の染み”。
クロが息を呑む。
(……見える……昨日の影の“残りカス”……)
零が歩き出す。
クロが後ろをついていくと──
影の染みが突然、“ぬるり”と形を変えた。
佐久間に向かって伸びる。
クロが叫ぶ。
「零!!影が……!!」
零の筆が瞬時に走った。
“式号・護影”!!
影は光に弾かれ、床に落ちるように消えた。
佐久間はへたり込む。
「ひっ……ひっ……!もういやだ……!なんで……!なんでこんなこと……!」
クロは佐久間の背を優しく支え、零を見つめた。
「送り主……絶対、この会社の中にいるよ……そうだよね、零……?」
零は頷いた。
「ロッカーに呪符を入れたということは、“鍵を持っているか、深夜に侵入できる者”」
クロは息を呑む。
「じゃあ……会社の人……?」
「まだ断定はしない。だが──このフロアに“絞られる”。」
そのとき。
給湯室のドアが、コン……コンと、ゆっくり叩かれた。
クロは反射的に零の背に隠れる。
「誰も……入ってないはずなのに……」
零は佐久間を見る。
「心当たりは?」
佐久間は震える声で答えた。
「け、今朝……一人だけ……僕を見て変な顔をした人が……」
「誰だ」
「営業部の……芦屋 綺羅さん……です」
零は目を細める。
クロも口を押さえる。
「綺羅……名前……どこかで聞いた気が……」
零は静かに呟いた。
「“芦屋”という苗字は──呪術筋に古くからいる家系だ」
クロの背筋が凍りつく。
(じゃあ……送り主……本気で……“殺しに来てる”……!)
給湯室のドアが、もう一度──
コン……コン……
その音は、人が叩いたものではない。
零はゆっくりと筆を構えた。
「クロ、構えろ。ここからが本番だ」
クロは零の背にぴたりと寄り、集中を高める。
給湯室の扉の隙間から、赤黒い影が滴り落ちた。
『……サァ……カ……マ……』
佐久間の名を呼びながら。
零は一歩前に出た。
「送り主の“手”。壊すぞ」
影が襲いかかる。
クロは息を呑み、零は筆を振り下ろす。
第一波──フロア全体が闇に沈む。




