第三十四話 綺羅の影との対峙 ― 中半 ―
白光が影を弾き飛ばした直後──
廊下全体は、まるで嵐の後のように静まり返った。
しかし、それは一瞬だけ。
床の奥で、ぶくり、と黒い穴が脈打った。
まだ終わっていない。
クロは息を切らしながら綺羅を抱きしめ、零の方を振り返った。
「零……!影、全部消えてないよ……!あれ、また動いてる……!」
零は頷き、筆を構え直した。
「綺羅の影の核が残っている。“心の奥底の本音”だ。あれを断たない限り……終わらない」
クロは綺羅の肩を抱き寄せながら叫ぶ。
「綺羅さん!本当は、生きたいんだよね!?さっき言ったよね!!生きたいって……!」
綺羅は震えながら頭を振った。
「でも……でも私は……今さら……生きたいなんて……言っちゃダメなの……」
言葉の最後に、綺羅の影が床から伸びてきて、彼女の足首を絡め取る。
クロは悲鳴を上げた。
「やめて!!綺羅さんを連れて行かないで!!」
影はゆっくりと綺羅を引きずろうとする。
まるで、「生きたい」と言った彼女を許さないとでも言うように。
零はすぐさま印を結んだ。
「式号──結界・縛錨!」
光の鎖が影の動きを止める。
だが、影は苦悶の声をあげながら怒りを増した。
『アアアアアァァアア……シネ……シネェ……
ゼンブ……オワレ……!!』
クロの顔色が青ざめる。
「この影……!綺羅さん自身に……“死ね”って言ってる……!」
零は低く答えた。
「綺羅が長年、自分に向け続けた言葉だ。“生きる価値なんてない”──その呪いが形になった」
クロは痛みに胸を押さえる。
(こんな……こんなの……どれだけ一人で抱えてたの……?どうして誰も気づかなかったの……?)
綺羅は影に引きずられそうになりながら、
涙声で言った。
「もう……いいんです……私なんて……!」
零が叫んだ。
「綺羅!!お前が“呪いたい対象”は佐久間誠ではない!ずっと──“自分自身”だ!!」
綺羅の瞳が大きく揺れた。
「私……私が……?」
零はゆっくりと綺羅に歩み寄る。
「お前は、自分を嫌い続けた。必要とされなかった過去が、そのまま“自分の価値”だと錯覚している」
影がギチギチと音を立てて怒り狂う。
『ウソ……ウソ……!!ダレモ……アイシテナイ……ウマレタトキカラ……!!』
零は冷静に返した。
「事実だ。お前は愛されなかった。否定され続けた」
クロは零の言葉に一瞬戸惑った。
「零……そんな言い方……!」
だが零は続ける。
「だが──“愛されなかったこと”と“愛されない存在であること”は違う!」
綺羅の呼吸が止まった。
クロも涙をこぼしながら叫ぶ。
「そうだよ!!綺羅さん!!あなたが悪いわけじゃないよ!!誰かがちゃんと抱きしめてくれなかっただけ!!それはあなたが“不要”だったんじゃなくて!“周りが気づけなかっただけ”!!」
影がさらに暴れた。
『ヤメロ……キキタクナイ……!!イワナイデ……!!!』
天井にまで広がった黒い影が、火山の噴き上げのように零へ襲いかかる。
零は筆を走らせた。
「式号──還心!」
光の盾が展開し、影の牙を弾いた。
だが影は止まらない。
綺羅の内側から湧き続けている。
クロは綺羅に寄り添い、必死に手を握る。
「綺羅さん!!聞いて!!“死にたい”って言葉は……本当は“助けて”の裏返しなんだよ!!」
綺羅の身体がびくっと跳ねる。
クロはそのまま綺羅を抱きしめた。
「あなたは……本当は……誰かにわかってほしかったんだよ!!孤独だったことも!苦しかったことも!寂しかったことも!全部全部──!!」
綺羅の瞳から涙が溢れた。
「わたし……ただ…誰かに……“いていいよ”って言ってほしかった……!」
クロは強く抱き締めた。
「言うよ!!何度でも言うよ!!綺羅さんは……生きてていい!!いていいよ!!一緒に……ここにいていいんだよ!!」
影が大きく揺れた。
まるで悲鳴のように、綺羅の苦しみが形を失い始める。
『……ヤ……ダ……デモ……ウソ……ワタシ……
ワタシハ……』
零は最後の一撃を構える。
「クロ!」
クロは涙を拭いて頷く。
「うん! 零、お願い!!」
零は筆を振り上げた。
「式号──心縫・白ノ印!!」
白い光が影の中心に突き刺さり、廊下中にまばゆい輝きが広がった。
影が、泣くような声をあげて崩れていく。
黒い泡がはじけ、苦しみの残滓が霧散していく。
綺羅は崩れるように座り込み、両手で顔を覆った。
「いやだ……苦しい……でも……温かい……何これ……こんなの……知らない……!」
クロは優しく綺羅の背を撫でた。
「それはね……“救われる痛さ”だよ……ずっと一人で抱えてきたものがほどけていく時の痛み……」
綺羅の影は、静かに、完全に消えた。
闇は晴れ、廊下の照明がふっと点灯する。
零は筆を下ろし、深く息を吐いた。
「──終わった」
クロは綺羅を抱きしめながら、涙でぐしょぐしょになった声で言った。
「綺羅さん……もう大丈夫。あなたは……生きてて、いいんだよ」
綺羅は震える声で、小さく呟いた。
「……生きたい……わたし……本当に……生きたい……」
クロは力強く頷いた。
「うん。一緒に、生きよう」
暗闇に閉ざされていた魂が、ようやく光を取り戻し始めた瞬間だった。




