第三十一話 七日後に死ぬ男 ― 後半 ―
屋根裏の闇が、呼吸するように揺れていた。
赤黒く湿ったそれは、影とも煙ともつかない存在で、
ただそこに“ある”だけで胸の奥をひきずるような重圧が生まれる。
クロは零の背に片手を添えたまま、全身の毛が逆立つような感覚に襲われていた。
「……零……あれ……本当に“死”なの……?」
零は闇から目を逸らさずに答える。
「死の呪符が呼び寄せた“死の陰”だ。本体ではないが、
宿主を殺すには十分すぎる」
佐久間の背後で、何かが“コトン”と倒れた音がした。
だが振り返ったのは彼だけで、クロと零は視線を外さない。
クロは震える声で呟いた。
「……喋った……あれ……言葉分かる……?」
零の声は淡々としている。
「言葉を理解しているわけではない。“呪いの欲求”が声を形にしただけだ」
そのとき。
赤黒い影が──
ぬるり、と“降りてきた”。
屋根裏の板に長い爪のようなものを立て、ズズ……ッと擦っている。
佐久間の息がひゅっと詰まる。
「やっ……来る……来る……!零さん!!」
零は筆を前にかざし、闇を一瞥する。
「動くな。“それ”はまだ形を持っていない」
クロは息を呑む。
「じゃあ……今近づいてきてるのは……?」
「本物の“死”が、お前の未来の姿をなぞっているだけだ」
赤黒い影が、佐久間の影に手を伸ばした。
影同士が触れようとした瞬間、佐久間の膝が崩れ落ちる。
「……ッ!!足が……動かない……!冷たい……!」
クロが叫んだ。
「零!!あれに触れたら……!」
零の筆が空を裂き、墨が飾り文字のように広がった。
「式号──“結界・反魂”!!」
部屋全体を覆うように、淡い白光が広がった。
赤黒い影が触れた先で光が弾け、影は苦しむように身をよじらせる。
『……ア……ぁ……ぁアア……』
クロが目を大きく見開いた。
「零!効いてる……!」
「当たり前だ。死は“生の祈り”に弱い」
影はゆっくり後退したが、完全に消える気配はない。
零は筆を握り直し、屋根裏の奥へと歩み寄る。
クロが慌ててついていく。
「零……どこ行くの……!」
「“核”を壊す。あの影の源がどこかにある」
屋根裏の奥は、薄い木板と古い段ボールだけが整然と並ぶ空間だった。
しかし。
そこだけ“空気が違う”一角がある。
黒い布がかけられた箱。
佐久間の視線が、吸い寄せられるようにそこへ向かった。
「……あれ……見覚え、ない……僕はこんなもの……置いた覚えが……」
クロは嫌な予感を覚え、零の腕を強くつかんだ。
「零……やだ……あれ、絶対……」
「近づくな」
零は一歩前に出る。
黒布をそっとめくると──
中には、小さな木箱が入っていた。
箱には血のような赤い紐が巻かれ、蓋には“逆さ文字”が刻まれている。
クロが震えた声で言う。
「零……これ……呪いの“核”……?」
零は箱の表面を一度なで、渦巻く呪力を確かめた。
「間違いない。この箱が死の呪符を固定している」
佐久間が震えながら尋ねる。
「そ、それを壊せば……僕は助かる……?」
零は静かに頷いた。
「だが──“核”に触れた瞬間、死の陰が本性を現す」
クロの呼吸が止まる。
「本性……?」
零は淡々と答える。
「今のはただの“影の前足”。本体は、まだ姿を出していない」
クロは手をぎゅっと握った。
(じゃあ……これから出てくるのは……本物の“死”……)
その瞬間。
屋根裏が揺れた。
消えたはずの赤黒い影が、今度は“天井一面”に広がったのだ。
ゼェッ……という、喉を擦るような音が響き渡る。
『……ヨコセ……オレノ……死……』
クロが零にしがみつく。
「零……!!本物……来る……!」
影は天井から垂れ下がり、細長い腕のように伸びてくる。
零は木箱に筆を触れ、一気に呪式を走らせた。
「式号──“断言の祈り”!!」
墨が木箱に吸い込まれ、蓋が震え始める。
影が怒り狂い、屋根裏全体を覆って叫んだ。
『アァアアアアアアアア……!!コワスナ……!!コワスナ……!!シヌ……!コイツ……シヌ!!』
クロが叫ぶ。
「零!!影、佐久間さんに向かってる!!」
零はクロへ短く指示した。
「クロ、離れるな!」
「絶対離れない!!」
影が襲いかかり、佐久間の影が吸い上げられるように揺れる。
佐久間が絶叫した。
「冷たい……!足が……吸われる……!!」
零は叫ぶ。
「クロ、佐久間の影を踏め!」
クロは床に飛び降り、佐久間の影の上に足を置いた。
瞬間──
影吸いの動きが止まる。
「影の重さは“存在の証明”だ。クロ、お前が踏んで支えている限り、死の陰は奪えない!」
クロは震えながら叫んだ。
「わ、わかったけど……!はやく壊して、零!!これ、すっごく冷たい!!」
零は木箱に再び筆を叩きつける。
「式号!!“祓滅”!!!」
木箱が破裂するように砕け、逆さ言霊が白い煙となって散った。
天井の影が悲鳴を上げる。
『アアアアアアアアアッッ!!!!!』
零は最後の一打を天井へ向け、
墨を空中へ叩きつけた。
「消えろ。“死”は未だ来ず!!」
白光が屋根裏全体を包み──
影は、一瞬で掻き消えた。
数秒の静寂。
クロは大きく息を吐き、その場にへたり込んだ。
「はぁ……はぁ……零……終わった……?」
零が顔を上げ、屋根裏を確認する。
「……ああ。“核”は砕けた。死の呪いはもう追ってこない」
佐久間は涙を流しながら膝をついた。
「……助かった……本当に……生きて……」
クロは零の袖に寄りかかり、小さく言った。
「零……怖かった……」
零はクロの頭をそっと撫でた。
「よくやった。佐久間の影を押さえ続けたのはお前だ」
クロは照れたように微笑んだ。
「……零がいたからだよ」
零は小さく息を吐き、夜空を仰ぐように屋根裏を見つめた。
「死の呪符をこの家に置いた者は──必ず“次”を仕掛けてくる。これは終わりではない。始まりだ」
クロは零の横顔を見つめた。
「じゃあ……これから“送り主”を探す……?」
「ああ。呪いの本当の狙いを見つけるためにな」
夜風が屋根裏の隙間から吹き込み、
死の影が去った家に、静寂を運んできた。
しかしその裏で、零の胸にはひとつの予感が芽生えていた。
──この呪いは、まだ序章にすぎない。




