第三十一話 七日後に死ぬ男 ― 前半 ―
黒猫呪術代行事務所。
薄い光の差し込む午後、零は護符の整理をしながら静かに筆を走らせていた。
クロは机の下に丸くなって昼寝をしている。
そんな平和な空気を破るように事務所の扉が、ためらいがちな音を立てて“コッ”と開いた。
「……すみません。突然で……」
入ってきたのは、スーツ姿の細身の男性だった。
三十代半ば。
疲れと焦燥が滲む目。
手は小刻みに震えている。
クロがぱちりと目を開け、零の後ろに隠れながら男をじっと見つめる。
零は静かに椅子に座り直し、言葉をかけた。
「用件を言え。呪いか、祟りか、死の予兆か」
男は一瞬息を呑み、その“言い当てられた言葉”に怯えた目をする。
「……死の……予兆……です」
男は震える手で一枚の“紙切れ”を取り出した。
零はそれを受け取って広げる。
紙はうっすらと黄ばんでおり、墨ではない“赤い線”が滲んでいた。
そこには簡潔に──
『七日後に死ぬ』
とだけ書かれている。
ただの悪戯にも見える。
しかし零は紙を目の前にかざすと、筆先で軽く触れた。
「……これは呪符だな。しかも“死の固定符”の一種だ」
クロが青ざめる。
「し、死の呪い……!?零、それって……!」
零は淡々と説明する。
「本人が読んだ瞬間──“七日後の死”が運命として定着する呪いだ」
クロは思わず口を塞いだ。
「じゃあ……この人……」
零は紙を男へ返しながら言う。
「何もしなければ七日後に死ぬ。だが、“何か”すれば助かる」
男は震える声で問いかけた。
「……な、何を……すれば……?」
零は呪符を指で弾くように示す。
「この符は“逆さ言霊”で書かれている。本来の言葉を逆転させ、呪いを成立させる技法だ」
クロが首をかしげる。
「逆さ言霊……?」
「普通なら“生きよ”と書くところを、“死を定める言葉”に変える。反転することで、死の運命を強制する──その類の呪いだ」
クロは不安そうに依頼人を見る。
男は唇を震わせながら語り出した。
「……これを受け取ったのは……つい昨日です。
会社のロッカーに入っていて……開いた瞬間、読んでしまって……」
零は眉を寄せた。
「ロッカーに?会社内で誰かが仕込んだか。お前に恨みを持つ人間はいないか?」
男は弱く首を振る。
「恨み……そう言われても……心当たりは……ありません……ただ……」
「ただ?」
男の表情が暗く歪む。
「この紙を読んだ直後から……変なことが続いていて……」
クロが身を乗り出す。
「変なことって……?」
男の声が震える。
「……自分の“影”が……七日前の自分と違うんです……」
クロは思わず零を見た。
零の表情は淡々としているが、その目は鋭く光っていた。
「影が違う……それは“死の呪符”の典型だな」
男はさらに続ける。
「夜、風呂場で……鏡に映った自分が……“七日後の姿”に見えたんです……顔が……痩せこけて……
目が……何かに怯えているようで……」
クロは小さく震える。
「そんな……じゃあもう……呪いが始まってるの……?」
零は短く頷く。
「始まっているどころか、“最終段階に入っている”。逆さ言霊による死の呪いはまず影に現れ、
次に鏡に現れ、最後に本人に“死が追いつく”。」
男の顔が青ざめる。
「た、助かる方法は……ないんでしょうか……?
私は……死にたくない……まだ……何もできていない……!」
クロは小さく息を吸い、零の袖を握った。
「零……助けてあげて……この人……ほんとに必死だよ……!」
零は静かに目を伏せた。
「……助ける」
男は嗚咽し、涙を浮かべながら零の手を握る。
「お、お願いします……!本当に……お願いします……!!」
だが──
零の表情は僅かに曇っていた。
呪符には、書いた者の“手癖”が残る。
この紙には明らかに残っていた。
形も癖も、筆圧も、祈り屋から見れば隠しようのないもの。
そして──零は悟った。
(……この呪符を書いたのは素人ではない。呪いに精通した人間……あるいは──“呪術師”)
クロが零の変化に気づき、小声で尋ねた。
「零……どうしたの……?」
零は小さく溜息をつき、呟いた。
「厄介な相手だ。これは“殺意の呪符”。普通の恨みではない」
クロの瞳が揺れる。
「殺意……?誰かがこの人を殺そうとして……“本気の呪い”をかけてる……?」
零は紙を見つめながら言った。
「依頼人を殺したい者が、“呪術の知識を持つ誰か”を雇ったか──あるいは本人の周囲に、呪術を使える人間がいる」
男は震えながら零に縋る。
「私は……誰に恨まれているのかも分かりません……!本当に……何もしていないのに……!」
零は男の目をじっと見て、静かに言う。
「それが本当なら──この呪いは“あなた本人”ではなく、“あなたの運命”に向けて放たれた呪いだ」
クロは息を呑む。
「運命に……?」
零は頷いた。
「“この男が死ぬことで得をする誰かがいる”それだけのことだ」
クロは拳を握った。
「そんなの……許せない……!」
零は筆を握り直し、依頼人に告げた。
「七日後までに解く。ただし──今夜が最初の山だ」
男は震えながらうつむく。
零は続けた。
「今夜──“死が訪れる兆し”が最初に来るはずだ。影の変質、鏡の揺らぎ……そして“死の気配”そのものが襲う」
クロは依頼人の手をとり、真剣な目で言った。
「大丈夫。零が絶対に助けるから……わたしも、いっしょに守るから……!」
男は涙を浮かべながら深々と頭を下げた。
「お願いします……本当に……お願いします……!」
零はゆっくり立ち上がり、灯りを消した。
薄闇が事務所に降りる。
零の声は冷静で、しかしいつになく研ぎ澄まされていた。
「今夜──死の呪いと対峙する。覚悟しておけ」
クロは不安そうに零の袖を掴む。
「零……怖いけど……わたし、絶対ついていくから……」
零はクロの頭を軽く撫でた。
その夜、“死を定める呪符”の第一の気配が
静かに動き始める。




