外伝6 八尺様 ― 後半 ―
八尺様は“笑って”いた。
廊下の暗闇の中、白いワンピースを揺らしながら、天井すれすれの高さで──
異様なほど細長い影を揺らめかせて。
『ぽ……ぽぽぽ……ぽ……』
その笑い声は遠くから響くはずなのに、耳の奥で囁かれるように近い。
クロは恐怖に飲まれそうになり、震えながら零にしがみついた。
「れ、零っ……八尺様が……笑ってる……わたしのこと……呼んでる……!」
零はクロの頭を押さえ、静かに低く言った。
「絶対に“顔を見るな”。奴は目を合わせた者を逸らさない」
クロは震えた声で返す。
「うん……分かってる……!」
零はクロの手を取り、廊下の反対側へ走り出す。
“ダッ” とクロを抱え、零は迷いなく民宿の裏口へ向かう。
しかし──
ギシッ……ギシッ……
床板が不自然に軋んだ。
八尺様は零たちの動きに合わせるようにゆっくり歩いている。
歩幅は異様に大きいのに、なぜか音は小さく、まるで重力がかかっていないように。
クロが零の背にすがりながら震えた。
「零……なんで追ってくるの……!名前呼ばれただけで……?」
零は走りながら即答する。
「“呼び声を聞いた時点”で狙われる。八尺様にとって、お前はもう“獲物”だ」
『ぽ……ぽぽ……ぽぽぽ……クロ……かわいいクロォ……』
クロは耳を塞ぐが、声は耳の奥で響き続ける。
「やだ……やだぁ……なんでこんな……!」
零は言った。
「お前が悪いわけじゃない。八尺様はただ、“若い魂”を喰うだけだ」
クロは涙をこらえた。
(……でも……それなら……わたしが……狙われでも……いい……)
そう思った瞬間──
零がクロを抱え直し、強く囁いた。
「クロ。“自分を犠牲にしよう”なんて考えるな」
クロはびくりと震える。
「なっ……なんで分かるの……!」
「声に出さずとも、顔に書いてある」
「……っ!」
零はクロの額にそっと手を置く。
「お前がいなくなったら、俺も終わりだ」
クロは息を飲んだ。
(……零……)
ほんの一瞬、恐怖よりも別の“熱さ”が胸に広がったそのとき──
ドン……!
後方から大きな衝撃音。
八尺様が、壁や天井に“頭を擦りつけるように揺れながら”近づいてきている。
その影は異様に細く、“縦に伸び続けているように”見えた。
零は裏口を蹴り開け、夜の田舎道へ飛び出した。
月のない夜。
田んぼの向こうに広がる真っ暗な一本道。
風の音だけが響く──
はずだった。
『ぽぽぽ……ぽ……クロォ……待って……?』
その声は、なぜか“真正面から”聞こえた。
クロは息を呑む。
「……零……まさか……!!」
零も気づいた。
八尺様は民宿の後ろから追ってきたはずなのに──
影は前方にもいる。
“挟まれた”。
零はすぐにクロを抱きしめ、短く指示する。
「クロ。目を閉じろ。絶対に開けるな」
クロは震えたまま頷いた。
零は呼吸を整え、筆を逆手に構えた。
「……逃げ道は一つ。“村の外”まで走り抜ける」
クロは目を閉じたまま零にしがみつく。
「零なら……できる……わたし……信じてる……!」
八尺様の影が揺れる。
長く、細く、風で切れた電線のようにぐらん、と頭部が振れた。
頭には白い帽子のような何か。
クロが零の胸元で震える。
「ねぇ零……本気でどっちも来てる……無理だよ……!」
零はクロを抱き寄せる。
「いいや。お前がいるなら、逃げ切れる」
クロは目に涙をにじませ、零の服を強く掴んだ。
(……零となら……生きたい……絶対に……!)
零は地面に墨を叩きつける。
「式号──“走影”!」
墨の線が地を走り、零とクロの影が強く伸びる。
その影が、零たちの身体を軽くした。
クロが息を呑む。
「わ……!身体……軽い……!」
「走るぞ、クロ!!」
零はクロを抱えたまま、全力で村の出口へ走る。
だが──
八尺様の足音は異様に速い。
コッ……コッ……コッ……
足音なのか分からないほど歪んだ音。
そして──
決して遠ざからない。
クロは零の胸元で震えながら叫ぶ。
「零!!ついてきてる!!後ろも前も……同じ声が聞こえる……!」
『ぽ……ぽぽぽ……クロ……にげないで……いっしょに……いこう……?』
零は、クロの耳を塞ぐように抱きしめた。
「聞くな。振り返るな。お前は俺を信じていろ」
クロは涙をこぼしながら、訴える。
「零……!こわい……!本当に怖いよ……!!」
「分かっている。だが──大丈夫だ。俺が絶対に守る」
クロは零に顔を埋め、小さく呟いた。
「信じてる……零だけを、信じる……!」
ようやく──
村の外れにさしかかった時。
零は異様な気配を感じ取り、足を止める。
“地蔵がない”。
本来、村の境界を守るはずの地蔵が完全に砕かれ、欠片すら散っている。
クロが震えた声で言う。
「零……ここ……通れない……?」
零は答える。
「通れる。だが──八尺様も通れる」
クロの顔が蒼白になる。
「じゃあ……もう、どこにも逃げられない……?」
その瞬間だった。
背後から、八尺様の声が地鳴りのように響く。
『ぽ……ぽぽぽ……クロォ……いかないでぇ……』
クロが悲鳴をあげる。
「零っ!!来る!!本気で来る!!」
零はクロを抱きしめ直し、筆を地面に叩きつけた。
「……ならば──“ここで断つ”。」
クロが驚き、顔を上げた。
「零……!?」
零は墨を乱暴に描くのではない。
細かく、緻密に、まるで祈るように筆を走らせる。
墨が光り始めた。
「式号──“結界・地縛”」
墨の円が地に広がり、地面が淡く光を帯びる。
クロは目を見開く。
「これ……八尺様を“閉じ込める”結界……?」
「違う。“通らせない”結界だ」
八尺様が姿を現す。
二メートル以上の異様な長身。
白いワンピースに、大きな帽子。
しかし顔は影に沈み、表情は見えない。
声だけが、無気味に響く。
『クロ……クロ……一緒に来て……?』
クロは両手で耳を塞ぎ、涙をこぼした。
「やだ……零……!絶対いかないよ……!零と、生きていたい……!」
その叫びに──
八尺様がビクン、と揺れた。
ほんの一瞬、動きが止まる。
零の瞳が光る。
「……“感情”には反応するか」
零はクロの肩を掴み、真っ直ぐクロを見つめた。
「クロ。俺の声だけを聞け」
クロは涙の中で頷く。
零は続ける。
「俺はお前を渡さない。絶対にだ」
クロの胸に熱が灯る。
(……零……零はいつも、わたしを守るって言ってくれる……世界中で一番信じられる声……)
八尺様の影が、再び動き始めた。
『ぽぽぽ……クロ……行こう……?あなたは……わたしの……』
その瞬間、クロが叫んだ。
「違うっ!!わたしは零の傍にいる!!いくわけない!!」
八尺様の動きが止まる。
零が叫ぶ。
「今だ、クロ!!“名前を否定しろ!!”」
クロは涙を流しながら叫び返した。
「わたしは“クロ”!!あんたのものじゃない!!
零の……零の大事な……“クロ”なの!!」
八尺様の身体が激しく揺れた。
白いワンピースが裂けるように闇が噴き出す。
『ぽ……ぽぁ……ぽぽぽ……!いやぁ……いやぁぁあああ……!』
零が筆を振り下ろす。
「式号──“祈り封”!!」
地縛結界の光が強まり、八尺様の長身を飲み込んでいく。
ワンピースが風に吸われるように消え、姿が歪んだ影になって溶けていく。
『ぽ……ぽ……ぽ……』
最後の声が、遠くで消えた。
残ったのは──
ただの夜風と、静かな田舎道だけだった。
尊い静寂の中、零はクロをそっと抱き寄せる。
クロは涙を流しながら零の胸に顔を埋めた。
「……零……こわかった……本当に……怖かった……!」
零はクロの背に手を添え、静かに言った。
「怖い思いをさせたな。だが……もう大丈夫だ」
クロは零の胸元を掴みながら震える。
零はその震えを抱き込み、優しく頭を撫でた。
「お前はもう狙われない。“八尺様”は、お前が“自分の名前を取り戻した”瞬間──縛りを失った」
クロは零の服をぎゅっと掴む。
「零のおかげ……零がいたから……わたし、生きてる……!」
零は静かに微笑む。
「……当たり前だろう。お前は──俺のクロだ」
クロは涙をこぼしながら笑った。
夜風が、二人の髪をやさしく揺らした。
崩れた地蔵の欠片だけが、八尺様という怪異が確かに存在した証だった。
そして、零とクロの絆はまた一つ、深い闇を越えて強く結ばれた。




