外伝6 八尺様 ― 前半 ―
「……零、また田舎に来たら何か起きそうな気がするんだけど」
クロが、不安そうでもあり、どこか楽しそうでもある声で呟く。
「冗談のつもりなら、言葉選びを考えろ」
零は荷物を肩にかけながら、薄い雲の下に広がる田園風景を見渡した。
駅から徒歩三十分。
人も車もめったに通らない一本道を進み、古い木造の家々が続く小さな村に入っていく。
どこか懐かしい土の匂い。
風に揺れる稲の葉。
空が広く、どこまでも青い。
クロは少女の姿で零の後を歩きながら、口をとがらせた。
「だって……毎回“変なこと”起きるじゃん。前は禁后でしょ、姦姦蛇螺もいたし……」
「だからと言って、休息のたびに怪異を探すな」
「探してないよ! 勝手に向こうから来るんだもん!」
クロの金色の瞳が少し怯え、少し期待に輝く。
零はため息をついた。
「頼むから“普通の休暇”というものを覚えろ」
「むぅ……それは零が怪異に好かれすぎなの」
「……そうかもしれんな」
そんな会話を続けながら進んだ先──
村の入口に、風雨に削られた古い“地蔵”が立っていた。
欠けた耳に、ひびの入った頬。
どう見ても普通の地蔵に見えるのに、零が足を止めた。
「……零?」
「この地蔵……目的があるな。“境界を結ぶ”気配だ」
クロの顔が強張る。
「もしかして……結界……?」
「そうとしか思えん」
風がひゅうっと吹き抜け、田んぼの向こうから、奇妙な残響が聞こえた。
『……ぽ……ぽぽぽ……ぽ……』
クロが零の腕を掴んだ。
「今の……何の声?」
「動物ではないな」
零は表情一つ変えずに言う。
「……“八尺様”の噂を覚えているか?」
クロが背筋を震わせる。
「やだ……聞いたことある……白いワンピース着た女の人……すっごく背が高くて、“ぽぽぽ”って笑うって……!」
零は頷いた。
「地域により姿が違うが……狙われれば、助かる者は少ない。結界を破れば、あちらから接触してくる」
クロは不満げに零の袖を引っ張る。
「ねぇ……零……また“休暇”じゃなくなるの?」
「まだ決まったわけではない」
そう言った零の声音は冷静だが、その瞳だけが僅かに鋭くなっていた。
民宿に着くと、女将が出迎えてくれた。
「まあまあ、あんたら。今日はゆっくりしてってな。若い子は珍しいんだよ、この村は」
女将は人懐っこい笑みを見せながら言ったが、
クロを見た瞬間、表情がわずかに固まった。
そして、零へと視線を向ける。
「……アンタたち、どこ回ってきた?」
「村の入口だけだ」
「地蔵は……壊れとらんかったかい?」
零とクロは顔を見合わせた。
「壊れてはいなかった」
「でもなんか、ひびが入ってるのは見たよ?」
女将は深刻そうに眉をひそめた。
「……そりゃ、嫌な予感がするねえ」
クロが不安そうに近づく。
「女将さん……八尺様って、本当にいるの?」
女将は声を潜めて言った。
「いるよ。十数年前にも、一人……連れてかれた。あの“ぽぽぽ”って笑い声、忘れられん」
クロは喉を鳴らした。
「うわぁ……やっぱり本物なんだ……」
女将は零をじっと見る。
「アンタたち。本当に、用心しとくれよ。特にあんたらくらいの若い子は……狙われやすいからね」
零はふっと目を細めた。
「狙われるのは俺ではないさ」
女将は意外そうに眉を上げた。
クロが不安げに零の袖を掴んだ。
「零……クロ、狙われる……?」
「もしかすればな。八尺様は“少女”も狙う」
「やだ!」
クロは零の背中に隠れた。
零はクロの頭に手を置き、
「大丈夫だ。俺がいる」
と静かに言い切った。
その言葉に、クロの肩が安心したように落ちた。
その夜。
民宿の一室で、二人は布団を敷いて休もうとしていた。
クロは髪をほどき、畳の上に座り込んで零を見つめる。
「ねぇ、零……今日の声……八尺様だったのかな?」
「断言はできんが……“ぽぽぽ”という笑いは特徴的だ。間違いではないだろう」
クロは不安そうに膝を抱えた。
「八尺様に狙われたらどうなるの……?」
「まず、声が聞こえる。次に姿を見る。最後に……取り殺される」
クロは零の袖を掴んだ。
「やだ……やだよ……!」
「心配するな。俺が守る」
クロは俯きながら零に寄り添い、
「零……絶対だよ……?」
と小さく囁いた。
零はその頭をやさしく撫でた。
しかし──
その瞬間。
畳の向こう。
障子の外側から。
コツ……コツ……コツ……
不自然なほど高い位置を叩く音がした。
クロが跳ね上がる。
「えっ……?零……?今の……」
零は静かに立ち上がり、筆を手に取った。
障子の向こうから──
『ぽ……ぽぽぽ……ぽ……』
低く、男のような、けれど女にも聞こえる奇妙な声が響いた。
クロの顔が真っ青になる。
「……零……!来てる……!!」
零はクロを庇い、低く呟いた。
「……八尺様、か」
コツ……コツ……コツ……
障子の、通常では“絶対に届かない高さ”を叩く音。
クロは震えながら零の背に隠れた。
「……高さ……二メートル以上ある……零……やだ……やだ……!」
『ぽぉ……ぽ……ぽぽぽ……』
声は笑っているのか、泣いているのか、判別できないほど歪んでいる。
そして──
八尺様は明確に“呼んだ”。
『クロ……ねぇ……クロ……?おいで……』
クロの顔から血の気が引いた。
「やだ……なんで名前……知ってるの……?」
零は即座に答えた。
「真似たのだ。俺の声を。俺がいつもお前を呼ぶ声をな」
クロは目を見開く。
(……零の声……?そっか……さっき、わたしたち“名前”呼び合っちゃった……聞かれてた……!)
障子がぐらりと揺れる。
クロは耳を押さえ、震える声で叫んだ。
「零っ!!この部屋、封印してるのに……来る……!!」
「盛り塩が弱い。誰か、壊したな」
クロの瞳が潤む。
「じゃあ……クロ、狙われる……?」
零は静かに筆を構え、障子に向かって立つ。
「安心しろ。お前は俺が守る。一生だ」
クロは涙をこぼしたまま、零の背にしがみつく。
そして零は障子に向かい──
八尺様と最初の対峙 を迎える。
『ぽぽぽ……ねぇ……クロ……でておいで……』
深夜。
長い影が、障子をゆらりと覆った。
その背丈は──人間のはるか上。




