第三十話 黒乃零の休日 ― 後半 ―
闇の底から聞こえた声は──
少女でも、クロでもない。
零とクロを凍りつかせるほどの“深い喪失と絶望”を帯びていた。
『……返して……返して……私の……子供……』
クロが蒼い顔で零の手首を掴む。
「れ、零……この闇……“母親の気持ち”が核になってる…子供がいなくなって……探して……探して……でも見つからなくて……」
少女は必死の形相で零にしがみつく。
「おかあさん……こわいよ……わたし……どこにもいけない……」
その声は少し生々しすぎるほど切実で、クロの胸が痛む。
(……この子、きっと……本当にずっと泣いてたんだ……誰にも届かなかったんだ……)
零は裂け目の奥を睨みつける。
闇の中心に、“影の母”がいた。
姿ははっきりとは見えない。
黒い霧のような、でも輪郭だけは“女性”をしている何か。
その影は少女を凝視し、執着の滲んだ声で呟き続けていた。
『返して……返して……あの子を……』
クロが震える声で言う。
「零……この人……本当に子供を失って……その絶望が闇を作ったんだ……悪意じゃなくて……
“すがる場所を探したまま怪異になっちゃった”……」
零は深く息を吸い、筆を握り直す。
「……分かっている。これは倒す怪異ではない。“ほどくべき祈り”だ」
クロが涙ぐんだ目で零を見る。
「……救えるの……?」
零は少女の肩に手を置きながら言った。
「救う。この子も、母親も。両方だ」
影の母が零の言葉に反応したように、黒い霧がぐらりと揺れた。
『誰……?誰なの……?あなたは……あの子を……奪う人……?』
少女は泣き叫ぶ。
「ちがう!おかあさん、ちがうの!このひと、たすけてくれるの!」
闇が少女をさらに強く引く。
クロが叫ぶ。
「零、早く!!あの影……少女を“本当に自分の子供だと思い込んでる”!」
「……ああ、見えている」
零は静かに筆を振り上げた。
その動作には焦りはない。
ただ揺るがない決意だけが宿っている。
「では、母親に返してやる。だが──正しい“真実”をな」
墨が空気を切り裂き、零の祈りが闇を照らす。
「式号──“心墨・母返”」
光のような墨の線が裂け目に流れ込む。
闇がざわりと波打ち、影の母が苦しげに声をあげた。
『やめて……やめて……!消さないで……!あの子を……返して……!』
零は無言で足を踏み出す。
彼は誰より静かで、誰より優しい怒りを持つ“祈り屋”。
「消しはしない。お前の想いは確かにここにある。だが──」
零は少女を抱き寄せながら言った。
「“この子はお前の子供ではない”。その嘘を手放せ」
影の母は絶叫し、闇が大きく膨れ上がる。
『ちがう!!あの子は……私の……!私の……たった……ひとり……!』
クロが歯を食いしばった。
(この声……本当に、この人……寂しかったんだ……苦しかったんだ……)
零は筆を振り下ろし、地面に円環を描いた。
少女とクロを守るように立ち、闇とまっすぐ向き合う。
「母親よ。お前が求めているのは“この子”ではない」
影の母の動きが止まった。
『……?』
「お前が探しているのは──本当の“自分の娘の記憶”だ」
その瞬間、影の母の黒霧がわずかに揺れた。
零はさらに続ける。
「悲しみが深すぎて、娘の記憶を見失った。だから“似た声”を求めて、この路地に彷徨い続けた」
クロは少女の背を撫でながら泣きそうになる。
「……この人……本当に……子供の声を探してただけなんだ……」
影の母がすがりつくように囁く。
『じゃあ……私は……あの子を……どこに……?
私の……子は……』
零は静かに目を閉じ、筆の先を地に落とす。
墨が広がり、闇に溶けていく。
「……もういない」
影の母の動きが止まる。
世界が静かになる。
『……もう……いない……?』
「だが、“声”は消えていない。愛も、祈りも、悲しみも……消えていない」
影の母はゆっくり、ゆっくり少女から手を離した。
『……こえを……きかせて……私の……あの子……』
少女が涙を浮かべ、震える声で呟いた。
「さみしいよね……でも……わたし……おかあさんじゃないよ……ごめんね……」
その言葉は不思議と優しく、影の母にそっと触れた。
闇がふっとほどける。
影の母の輪郭が淡く光り、柔らかい風のように揺らいだ。
『……そう……違うのね……でも……ありがとう……泣いて……くれて……』
クロは口元を押さえる。
(……ずっと……この言葉を、誰かに言ってほしかったんだ……この人……ずっとひとりで……闇にいたんだ……)
影の母は少女に手を伸ばし、そして、触れることなく下ろした。
『最後に……あなたの声を聞けて……よかった……』
少女は泣きながら答えた。
「わたしも……あなたが……こわかったけど……
でも……かなしくて……ずっと泣いてたの、分かったの……」
影の母は静かに微笑んだように見えた。
風が吹き抜け、黒い霧が光に変わって舞い上がり──
空へと溶けていった。
闇の裂け目は完全に閉じ、路地裏に静けさが戻った。
少女は零の腕の中でぐったりしていたが、表情は穏やかだった。
クロがそっと頬を撫でる。
「……大丈夫だよ。もう、こわくない」
少女はうっすら目を開け、零を見つめる。
「……ありがとう……おにいさん……ねこちゃん……」
零は少女を抱き上げ、言った。
「家まで送る。お前の母親は、生きている」
少女は涙をこぼしながら頷いた。
クロは零の袖をつまんで、笑った。
「零……やっぱり、やさしいね」
零は顔を背ける。
「……別に優しくはない」
「優しいよ。わたし、知ってるもん」
零は少しだけ苦笑した。
穏やかな風が吹き、闇が消えた路地に太陽が差し込む。
“祈り屋の休日”は
結局、仕事になってしまったが──
それでもクロにとっては、零と過ごしたすべての時間がきっと“休日”だった。




