第三十話 黒乃零の休日 ― 中半 ―
路地裏へ足を踏み入れた瞬間、空気が一気に重たく変質した。
街のざわめきが届かない。
風さえ止まったかのように静まり返る。
クロは少女の姿のまま、両腕を少し広げ、耳の奥に神経を集中させるように立ち止まる。
黒髪が風のない路地でふわりと揺れ、金色の瞳が細くなる。
「……零。ここだけ“外”から切り離されてる……
空気が止まってるの。誰かが泣いた後みたい」
零も周囲をぐるりと見回す。
「結界というより……“迷い”の気配だ。誰かが呼んでいるのかもしれん」
クロの眉がひそめられた。
「ねぇ、零……これ、怪異の匂いはするけど……
でも“悪意”じゃないんだよ。……なんていうか……ひたすら、すっごく……さみしい」
零は足を進める。
路地奥は不自然なほど暗く、昼なのに夜のような陰が沈んでいた。
その時──
タタタタッ、と小さな足音が響いた。
クロが即座に反応する。
「来る!」
路地の暗がりから、小さな影が飛び出してきた。
七歳か八歳ほどの女の子。
痩せていて、顔は髪で隠れている。
古めのワンピースは泥で汚れ、裸足同然。
だが──生気が薄い。
零が少女に声をかける。
「お前、ここで何をしている」
少女は震える肩を抱きしめ、か細い声で呟いた。
「……こわい……おかあさん……どこ……ひとり……ひとりは……いや……」
クロの胸がぎゅっと縮んだ。
(この感じ……わたしが昔ひとりで震えてたときの……あの……どうしようもない寂しさ……)
少女は生者の匂いを持たない。
かといって、怪異が放つ“邪気”もない。
零は確信し、言葉にする。
「……これは“子供の記憶”だ。実体化したものだろう」
クロが息を飲む。
「記憶が……こんなふうに形になるの……?」
「強烈な恐怖や孤独が蓄積し、“誰かを呼び求めた”結果だ。怪異というより……魂の残滓が濃く固まったものだ」
少女が零のほうを向きかけた──その瞬間。
空気がひやりと冷たくなった。
少女の足元が“ぐにゃり”と黒く沈んだ。
地面が影のように液状化し、少女を引きずり込もうとしている。
クロの瞳が見開かれた。
「零っ!なんかが“この子を奪おう”としてる!」
零は即座に筆を構える。
「式号──“縫留”!」
墨の線が床を走り、裂け目に触れる。
結界が張られ、少女の身体が引きずられる速度が一時的に止まった。
だが──
裂け目の“向こう側”から、さらに強い引力が少女を引く。
影は静かなのに、底のほうで何かが“膨らんでいる”気配。
クロは少女へ駆け寄る。
「ねぇ!大丈夫、今助けるから!」
少女は涙で顔をぐちゃぐちゃにしながらクロへ手を伸ばす。
「……こわい……おかあさん……いやだ……ひとりにしないで……!」
その声音はクロの心を刺すほど痛々しかった。
零は少女の手を取ろうとした。
だが──
少女の体がひゅんっと揺れ、ぐっと後方へ引きずられた。
クロが叫ぶ。
「零!ちょっと! 引きが強すぎる……!」
「闇が……“あの子じゃない何か”を引っ張っている。この子の恐怖を餌にしているな」
クロの表情が凍りつく。
「まさか……“別の記憶”が混ざってる……?」
零が短く頷いた。
「おそらくは。誰か大人の記憶……あるいは“喪失そのもの”が闇の核になっている」
そのとき──
裂け目の奥から、“黒い手”がにゅっと伸びてきた。
指は長く、形は人間に近いのに、動きはまったくの別物。
その手が、少女の腕ではなく──
クロの手首を掴んだ。
「……っ!!」
クロの身体が静かに震える。
瞬間、足がすべり、片足が闇に沈んだ。
「クロ!」
零が駆け寄る。
クロは必死に笑おうとしながら叫んだ。
「れ、零っ!これ……“子供じゃない”よっ……!
大きい……もっと深い……すっごく暗い……」
闇はクロの足首まで飲み込み、さらに引こうとしている。
少女が泣きながら叫んだ。
「やだ……ひとりに……しないで……!」
その声に呼応するように、闇はさらに広がる。
零は地面に墨を叩きつけるように描いた。
「“心墨・封断”!」
地面に黒い線が走り、闇の縁を一瞬だけ押し返す。
だが──
影の手はクロを離さない。
クロの声が揺れる。
「零……っ、たすけ……!」
少女の恐怖、闇の奥に潜む別の影、クロを掴もうとする異形。
零は静かに目を細めた。
その瞳には焦りも恐れもなく、ただ一つの意思だけがあった。
(誰一人、失わせはしない)
筆を握り直し、零は低く強く告げた。
「クロ。俺の声を聞け。離れるな。絶対に、だ」
クロは涙を浮かべながら頷いた。
「……うん……!絶対……離れない……!」
闇の裂け目が「ぱくり」と開き、少女とクロを飲み込もうと迫る。
零は大地に筆を叩きつけた。
「──“祈り屋の名にかけて、この闇を断つ”」
次の瞬間、路地裏を満たす空気そのものが震えた。
光も音も歪み、闇と祈りがぶつかり合う。
平穏な休日は、完全に姿を消した。
そして──
零の祈りが闇の底に届こうとしたその時、
影の奥から“別の声”が漏れた。
それは少女でもクロでもない。
深く、沈んだ、大人の女性の声だった。
『──返して。私の……子供を……』
零は目を見開く。
「……これは……」
クロが震える声で言った。
「零……この闇……“母親の喪失”が核になってる……!」
少女の記憶の影でもなく、怪異でもなく──
母親の絶望が形を成した“深淵”。
零は筆を強く握りしめた。
闇の正体が、動き出す。
そしてその渦の中心には少女とクロの恐怖が絡みついていた。




