第三十話 黒乃零の休日 ― 前半 ―
珍しく、黒猫呪術代行事務所には朝から依頼が来なかった。
曇り空の淡い光が、散らばった護符や墨の道具をやわらかく照らしている。
零は筆を整え、深い息をひとつ落とした。
「……今日は静かだな」
すると、机の上で丸くなっていた黒猫がふわりと跳ね起きた。
瞳は深い金色。
その身体が黒い光に包まれ──
小柄な少女の姿へと変わる。
黒髪にふわりとした癖があり、耳元には猫を思わせる小さな飾り。表情は生き生きとしていて、零を見ると嬉しそうに目を輝かせた。
「ねぇ、零。今日は、休もうよ!」
零は手を止めて眉を上げた。
「休む……?」
少女となったクロが元気よく頷く。
「そう!今日は依頼の気配がぜんっぜん無いよ?
呪いも、怪異も、呼び声も、全部静か。“休んでいい日”って感じがするの!」
零は視線を外しながらつぶやいた。
「そういう“感覚”は信用するなと言っている」
「でも当たるもん。だって、わたし零の式神だよ?」
クロは少し胸を張り、ぷくっと頬を膨らませる。
「零だって……本当は少し疲れてるくせに」
零が静かにまばたきをした。
クロは零の隣へ歩き、袖をくいっと引っ張る。
「ねぇ。たまには外に行こう?甘いの食べたり、散歩したり……一緒に歩きたいんだ。“仕事じゃない時間の零”と」
零は小さく息をついた。
たしかに最近、祈りと呪いが続いていた。
怪異の渦に身を置き続ければ、いずれ身体も心も摩耗する。
そして何より──
クロの瞳に浮かぶ「零と過ごしたい」という気持ちを、零は拒む理由を持てなかった。
「……分かった。少しだけ、外に出る」
クロはぱっと笑顔になった。
「ほんと!?やったぁ!」
猫だったころと同じように、少女の姿でも感情がすぐ顔に出る。
嬉しそうにくるりと回る様子に、零は困ったように目を細めた。
「ただし、長くはないぞ」
「うん、分かってる!じゃあ行こう、零!」
街は穏やかだった。
風はやさしく、人の流れもゆったりとしている。
クロは零の隣を歩きながらしきりに周囲を見回しては楽しげに声を上げた。
「ねぇ、あそこのお店……前にも来たことあるよね?あ、あそこの桜の木、もう蕾ついてる!」
零は淡々としているが、その歩幅はクロに合わせていた。
「そんなに浮かれることか?」
「浮かれるよ!だって零と歩けるの、好きなんだもん」
零は咳払いをした。
「……お前はいつも言葉が過ぎる」
「褒めてるんだけど?」
「褒めていない」
「褒めてるよ?」
零は肩を落とす。
本当に返しづらい少女だ。
だがその無邪気さに
零自身が救われていることを、彼はきっと自覚していない。
商店街に入ると、和菓子屋の店先に“小豆の日・いちご大福100円引き”の文字が躍っていた。
クロがぴた、と立ち止まる。
「……零。見た?」
「見たが?」
クロは頬を赤らめ、袖を引っぱる。
「ねぇ……行かない?あそこのいちご大福、すっごくおいしいの……また一緒に食べたい……」
零は目を細めた。
「……お前が欲しいんだろう」
「うんっ!」
「……分かった。行くぞ」
クロはぱっと笑った。
少女の姿でも猫のように全身で喜ぶ。
店内に入ると、静かな甘い匂いが漂っていた。
二人は向かい合わせに座り、大福を受け取る。
クロは嬉しそうに両手で包み、頬を染めた。
「いただきます……」
そして一口かじる。
途端に、花が咲いたような笑顔。
「……んんっ、おいしい……!
やっぱり零と食べるともっとおいしい!」
零は目を逸らした。
「……そうか」
クロはくすくす笑う。
その音は、怪異も呪いも存在しない世界のように
穏やかだった。
──だがその静けさは、永遠ではなかった。
店の外を、黒い影が一瞬だけ横切った。
クロの表情が急に変わる。
耳の奥で“猫の勘”が鳴った。
「零……今の……」
零も気づいた。
空気に走る、薄い“悲嘆”の気配。
「……怪異か?」
クロは立ち上がり、少女の姿のまま鋭く頷いた。
「うん……しかも、“子供の泣き声”が混ざってる……ただの怪異じゃない」
零は静かに大福を置いた。
「……休みはここまでだ」
クロが零の横に並び、瞳に決意の光を宿す。
「行こう、零。誰か……呼んでる」
二人は甘味処を出て、黒い影が消えた路地へ駆け出した。
“祈り屋の休日”は──
また、呪術師の時間へと戻っていく。




