第二十九話 記憶を買い取る男 ― 後半 ―
部屋の空気が、わずかに歪んだ。
月山一成は机越しに微笑み、黒乃零の一挙手一投足を観察するように細い瞳を細めた。
「黒乃零さん。本当に“心に触れられる”と……そう思っているのですか?」
「触れられる。人は記憶だけで生きているわけではない。心は、記憶の奥に隠された“感情”が支えるものだ」
零の声は静かだが、その奥には明確な怒りがある。
月山は机上のノートを撫でる。
「記憶は“商品”ですよ。重荷から解放され、なおかつ金銭を受け取れる。こんなに素晴らしい取引はないでしょう」
クロが低く叫ぶ。
『湊さんから“澪さんの記憶”を返せ!!あんた……人の心を何だと思ってるの!?』
月山はクロを見て、あくまで淡々とした声で言った。
「心など、消耗品ですよ。壊れたのなら、新しい幸福を与えればいい。……それが私の商売です」
零はゆっくりと筆を抜いた。
「湊の心を壊したのはお前だ。その代償を払わせる」
「へえ……」
月山は立ち上がる。
「では、破ってみせてください。“記憶の封印”を。あなたにできるのなら」
ノートのページから黒い靄のようなものが立ち昇る。
湊の“澪の記憶”が、感情を抜かれ、腐ったように変質した影だ。
クロが身を震わせる。
『零……この“影”……人の涙の匂いがする……!
すごく悲しい……すごく苦しい……でも……湊さんじゃない……別の……だれかの……』
零は理解した。
(……こいつ、“無数の人の悲しみ”を食っている)
月山は目を細める。
「人は、自分の心を捨てられるなら、何だって差し出す。私はその手助けをしているだけです」
零の瞳が強く光る。
「心を捨てても、人は救われない。“失った痛み”は必ず残る。湊が証明した」
月山は鼻で笑った。
「ならば証明してください。あなたの力で。呪術だか祈りだか知りませんが──本当に心を救えるというのなら」
零は前へ出る。
筆先をノートに向け、静かに言葉を紡ぐ。
「式号──“心墨”」
筆先から墨のような黒が伸び、ノートに染み込む。
その瞬間、零の視界に“湊の記憶の残滓”が流れ込んだ。
笑う女性の声。
小さな喧嘩。
冷えた手を温め合う夜道。
高峰澪という女性の“心の輪郭”がわずかに見える。
そして──
“別れの日”。
零は目を閉じた。
(……これは……湊が、“自分が傷つけたと思い込んでいた記憶”)
記憶の中で、湊と澪は雨の中で言い争っていた。
「どうして!どうして何も言ってくれなかったの!?」
「……ごめん。澪の負担になると思って……」
「そんなの関係ないよ!一緒にいたかったのに……!」
澪の涙と湊の沈黙。
後悔を残したまま、二人は離れた。
それが湊を苦しめ続け、“記憶を売る”という選択に追い込んだのだ。
クロが息を呑む。
『零……湊さん……澪さんのこと……本当に大切だったんだね……』
「だからこそ、忘れられるはずがない」
零はノートを両手で掴む。
筆先で文字をなぞると、黒い靄がビリビリと震えた。
月山が表情を歪める。
「……それ以上はやめておくことですね。その記憶はもう“私の所有物”だ」
「違う」
零が言葉を放つ。
「記憶は“持ち主の心”に宿るものだ。お前が奪ったのは記憶ではなく──“感情の接点”だ」
ノートから悲鳴のような音がした。
黒い靄が弾け、部屋中に散る。
クロが跳び上がって叫ぶ。
『零! “記憶”が戻ろうとしてる!』
零は筆を逆手に持ち、ノートに一閃を描いた。
「心墨・還霊──“記憶よ、持ち主の魂へ帰れ”!」
黒い靄が光に変わり、ノートのページは白紙に戻る。
月山が目を見開いた。
「……馬鹿な……!記憶は“商品”だと言っている!!どうして……!」
零の声は冷たい。
「お前は“記録”しか持っていない。心を扱ったことがない者に、本物の記憶は触れられない」
その時──
事務所の扉が乱暴に開いた。
そこに立っていたのは湊。
息を切らし、胸を押さえながら叫ぶ。
「……澪……澪……!思い出した……!」
クロが湊に駆け寄る。
『湊さん!』
湊は涙を流しながら零を見る。
「……僕……あの時、澪を失ったこと……ずっと自分のせいだって……許せなくて……全部消したくて……でも……本当は……“忘れちゃいけなかった”んだ……!」
零は頷いた。
「後悔は呪いではない。“生きたい気持ち”だ。それを否定するな」
湊は泣き崩れた。
月山は震える声で言う。
「……バカな……どうして……どうして記憶が戻る……売ったはずだ……契約したはずだ……!」
零は静かに答えた。
「契約で失えるのは“言葉の記憶”だけだ。“想い”は消えない。お前には、それが理解できない」
月山は後ずさり、壁に背をぶつけた。
クロが零の足に寄り添う。
『零……この人……もう何もできないよ』
零は月山に背を向け、湊を支える。
「帰れ、湊。今日から、後悔とともに生きろ。それが澪との記憶だ」
湊は何度も頷き、涙を拭いながら事務所を去っていった。
残された零とクロ。
クロが静かに言う。
『零……人の記憶って……本当に、消えないんだね』
零は窓の外を見つめながら答えた。
「記憶は消える。だが“心”は消えない。それだけだ」
気づけば雨は止み、夜の街に柔らかな光が差し込んでいた。
零の背中は、月山のような“心を奪う者”とは正反対の──
“心を繋ぎ直す者”のそれだった。




