第二十九話 記憶を買い取る男 ― 中半 ―
月山 一成が構える“記憶買い取り所”は、繁華街の端、ひっそりとした雑居ビルの二階にあった。
表向きは“心理カウンセリング”を装っている。
消えかけたネオン看板には
《月山心理相談室》
とある。
クロがビルを見上げ、眉をひそめた。
『零……ここ、空気が変だよ。怪異じゃないけど……“心の匂い”が重い……誰かの後悔とか、泣き声とか……いっぱい溜まってる感じ……』
「人の心を盗む場所は、こんな匂いがする」
零は階段を上りながら
ずっと感じていた“不自然さ”について考えていた。
(記憶は物質ではない。取引できるわけがない──だが湊の状態は“自然発生の記憶喪失”ではない)
湊の魂には穴があった。
それは意図的に開けられた“感情の空洞”。
月山は、おそらく
“言葉で記憶を引き剥がす技術”を持っている。
呪術ではなく――
“心理と暗示”の力を極限まで濃縮したもの。
ドアの前に立つと、受付の男が雑に声をかけてきた。
「予約は? カウンセリングは――」
言い終える前に、零は静かに言った。
「月山 一成と会わせろ」
受付の男は顔をしかめた。
「は? アンタ誰――」
しかし男の視線が、零の“筆”に触れた瞬間、口をつぐんだ。
クロが前に出て、小さく唸る。
『邪魔したら噛むよ』
「ひっ……!」
男は椅子から転げ落ちるように奥の部屋へ向かい、震える声で言った。
「……月山先生……来ました……あの、変な男……筆持って……」
零は扉の前に立つ。
すぐに、落ち着いた男の声が返ってきた。
「入ってください。黒乃零さん」
“名前を知っている”──
その一点で、零の瞳に警戒の色が混じった。
扉を開けると、そこは病院のカウンセリング室のように整然と整えられた空間だった。
黒いスーツを着た男が、机の向こうで微笑んでいる。
眉目秀麗、整いすぎているほど整った顔。
クロが小さく震えた声を漏らす。
『……零……この人……“心の匂い”がしない……』
零は目を細める。
「月山 一成か」
男は優雅に頷いた。
「ええ。あなたの噂は少しだけ耳にしました。『呪いを請け負う呪術師』──実在したとは驚きですね」
「俺は祈り屋だ。お前のように“心を盗む者”とは違う」
月山は口元だけで微笑む。
「盗む?違いますよ。私はただ“欲しがる者”に、
“記憶を失う権利”を売っているだけです」
「湊から“澪”の記憶を返せ」
零が一歩踏み出す。
月山は微かに首を傾げ、楽しそうに笑った。
「返す……?はて、何のことでしょう?」
机の上には、白いノートが一冊置かれていた。
シンプルな、日記のような装丁。
「月山。お前は人の記憶をノートに“封じている”な」
月山は肩をすくめた。
「封じている?ああ、なるほど──“そう見える”のですね」
クロが前足を振り上げ警戒する。
『なに言ってるの?湊さんの記憶……返せよ!!』
月山はクロを見て、小さく笑った。
「黒猫……なるほど、式神ですか。いいですね。可愛い」
クロのすべての毛が逆立つ。
『零……こいつ……人をモノみたいに見てる……』
零は月山を見据えた。
「湊の記憶を返さないなら、強制的に“心の封印”を破る」
月山は一瞬だけ瞳を細めた。
その目は冷たかった。
人を人と見ていない、“価値としてしか見ていない”目。
「黒乃零さん。私は人助けをしているのですよ。苦しみを消したい者から、記憶を“預かっている”だけです」
「湊は苦しんでる」
「でも記憶はもう返せませんよ。画面にもあるでしょう?」
月山は契約書を表示し、淡々と言った。
「契約とは、魂の結びつきです。一度結ばれれば──記憶は『所有者』が変わる」
零は即答した。
「記憶は“物”ではない。心を捨てさせて空洞を作り、“それを食っている”のはお前だ」
室内の空気が緊張する。
クロが零の足に寄り添い、震える声を出す。
『零……この人……“怪異じゃないのに怪異より気持ち悪い”……』
月山がゆっくりとノートを開いた。
そこに──
びっしりと書かれた文字。
《澪の記憶》
湊と高峰澪。
二人で行った場所。
交わした言葉。
笑った日。泣いた日。
すべてが残っている。
だが──
ページの端にはかすかな“黒い滲み”があった。
まるで記憶が腐っているような影。
零は確信した。
(これは怪異ではない。だが──確かに“心の術”だ)
記憶を封じたのではない。
“記憶の感情”だけを抜き取り、記録に書き換え、餌にしている。
月山は言った。
「人は悲しい記憶から逃げたがる。それは罪ではありません。私はただ、そのお手伝いをしているだけです」
零は一歩前へ出た。
「湊は“忘れたい”んじゃない。“救われたかった”だけだ」
月山は冷たく笑う。
「救われる努力をしない者を、どうして私が救う必要が?」
その瞬間、零の瞳がわずかに揺れた。
クロは零を見上げる。
『零……?』
零は、静かに、しかし怒りの滲む声で言った。
「……お前、一度でも“誰かを救おう”と思ったことがあるか?」
月山は笑わなかった。
淡々と、侮蔑を隠さない声で答えた。
「ありませんよ。“心”など、価値のある商品ですから」
クロの爪が床に立つ。
『……最低……!』
零は筆を握り直す。
「湊の記憶を返す。“魂の空洞”を塞ぐのは、俺だ」
月山は楽しげに笑った。
「実に興味深い。では見せてください──本物の“祈り屋”というものを」
空気が凍り、部屋の光がわずかに揺れる。
“怪異ではない男”との対峙。
だが、その“冷たい悪意”は怪異以上に危険だった。
零とクロは、記憶を奪った男と向かい合う。
湊の心を取り戻すために。




