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黒猫呪術代行事務所  作者: 無咲 油圧


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第二十九話 記憶を買い取る男 ― 前半 ―

事務所の扉が、静かに軋む音を立てて開いた。


外は小雨。

午後の薄い光が床に淡く落ちている。


入ってきたのは──

二十代の青年だった。


細身の体、青白い顔色、握りしめたスマートフォンが小刻みに震えている。


クロが真っ先に青年を見つめ、灰色の瞳を細めた。


『……零。この人……“何かを無くした匂い”がする……』


零は青年に声をかける。


「座れ。名前は?」


青年は喉を鳴らし、かすれる声で答えた。


「……西条さいじょう みなと……です」


零は静かに促す。


「話せ。お前は何を失った?」


湊は顔を伏せ、震える指でスマートフォンを差し出した。


画面には、一枚の契約書。


《記憶売買同意書》

《提供者:西条 湊》

《購入者:月山つきやま 一成いっせい

《受け渡し記憶:恋人・高峰たかみね みおに関する全記憶》


クロが驚いたように目を丸くする。


『……記憶を……売ったの……?』


湊の指先が震える。


「……はい……どうしようもなく辛くて……

“忘れられるなら幸せになれる”って言われて……

お金ももらえるって……それで……」


零は契約書を受け取り、淡々と目を通す。


文面だけを見ると、ただの“怪しい自己啓発屋”のようにも思える。


しかし──

クロが小さく震えた声で言った。


『零……この紙……人の匂いが変だよ……“記憶を食べた後の匂い”がする……』


零は視線を上げた。


「湊。本当に“澪”の記憶を失っているのか?」


湊は苦笑のように唇をひきつらせた。


「……覚えていないんです。本当に……名前も、声も……一緒にいたはずなのに……顔さえ、思い出せない……」


クロが眉を寄せる。


『……でも、辛そうだよ?忘れたはずなのに……心が泣いてるみたい……』


湊は胸を押さえた。


「……わからないんです……“忘れたのに、痛い”んです。思い出せないはずなのに……失った感覚だけが残ってる……どうして……」


零は静かに言った。


「“記憶を完全に消す”真似ができる人間はいない。消すのではなく──“隠す”だけだ」


湊は顔を上げる。


「じゃあ……僕の記憶は、どこに行ったんですか……?」


零は契約書を指先ではじく。


「契約相手──“月山 一成”。その男が、お前の記憶を持っている」


その瞬間、湊の手がぎゅっと強張った。


「……返してほしい……僕……何を間違えたのか……本当に知りたいんです……澪に、どんなことを……どんな言葉を……僕は……」


声が震え、言葉が途切れる。


クロがそっと寄り添う。


『……湊くん。記憶を売っても“心までは売れない”よ。心はね……覚えてるんだ。忘れたって嘘ついても……』


零は立ち上がり、筆を懐に差し込んだ。


「記憶の売買は、呪術ではない。だが──“心に触れる術”を使った痕跡がある。まともな人間のやることではない」


湊が息を飲む。


零は淡々と告げる。


「湊。お前の記憶を取り戻す。そのためには──

“記憶を買い取った男”に会う必要がある」


湊の手は震え、やがて小さく頷いた。


「……お願いします……僕の……“澪”を……返してほしい……」


クロが零の肩に飛び乗る。


『零、行こう。この記憶……奪われたままじゃいけないよ』


零は雨の止んだ窓の外を見る。


「月山 一成──“記憶を買う男”。そいつが何者であれ、湊の心を弄んだなら……その引き換えを払わせる」


雨の滴る街が、ゆっくりと夜に沈んでいく。


零とクロは静かに立ち上がった。


新たな闇へ向かう足音が、事務所から響き出した。

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