第二十八話 偽りの呪術師 ― 後半 ―
事務所の灯りは、先ほどよりもずっと柔らかく見えた。
偽りの呪術師の巣を崩した帰り道──
零とクロが戻ってきた時、依頼人の志乃宮遥は
椅子の端で小さく縮こまるように座っていた。
零の姿を見るなり、遥は息を震わせて立ち上がった。
「……あの……本当に……行ってくださったんですか……?」
零は頷き、濡れた髪を払う。
「“黒凰霊術会”はもう動けない。誰もお前を脅せない」
遥は胸に手を当てた。
安堵と罪悪感が入り混じった表情だ。
「……ありがとうございます……でも……私……
どうして、こんな人たちを信じてしまったのか……」
零はしばらく黙り、彼女の表情を見つめていた。
クロがそっと近づき、柔らかく声をかける。
『遥さん……怖かったんだよね。ひとりで、どうしていいか分からなくて……』
遥は震える唇を噛み、涙で視界を滲ませる。
「……はい……っ……本当は……家に“呪い”なんてないって……私、自分でも分かってたんです……夫の事故は、誰のせいでもないって……でも、認めたくなくて……“私が悪いんだ”って思った方が……何か……楽だったんです……」
クロは遥の足元に寄り、そっと前足を乗せた。
『苦しかったね……そんな時に、あんな人たちに脅されたら……誰だって信じちゃうよ』
遥の涙がぽたりと落ちる。
「……でも……私は……弱いから……夫がいなくなってから……何もかも怖くなって……自分を責め続けて……そんな時に、あの人たちに“呪われてる”なんて言われて……全部……信じてしまった……」
零は机の前まで歩み寄り、遥が差し出した領収書と、偽護符の束を手に取った。
雑に印刷された“護符もどき”。
机に置くと、紙の端がふっと折れるほど薄っぺらい。
零はその紙をひらりと裏返し、遥に問いかけた。
「遥。お前はこれを見て“呪い”を感じたのか?」
遥は涙を拭いながら首を横に振る。
「……いいえ……今見れば、ただの紙切れです……」
「そうだ。だが“弱った心”は、その紙切れに呪いを見てしまう」
クロが心配そうに遥を見る。
『……じゃあ、遥さんが怖かったのって……本物の呪いじゃなくて……“心が壊れかけた音”だったんだね……』
零は静かに言った。
「怪異とは違う。怪異は理屈では動かないが、
人の悪意は“理屈を持って近づいてくる”。だからこそ、弱い心を食い物にする」
遥はぽつりと呟く。
「……情けない……私は……呪われてもいないのに……勝手に恐れて……」
「情けなくはない」
零の声は淡々としているのに、どこか温かかった。
「人は弱る。弱った時に何かに縋る。それは人間として自然なことだ」
遥は顔を覆って泣いた。
零は少しだけ目を伏せ、言葉を選びながら続けた。
「だが──もし本当に“呪い”というものがあるなら、お前に降りかかっていたのは“罪悪感”という名の呪いだ」
遥は顔を上げる。
「……罪悪感……?」
「夫の死を自分のせいだと思った瞬間から、お前は自分を呪い続けていた。偽りの呪術師がつけ込んだのはそこだけだ」
クロがそっと頷く。
『遥さん……夫さん、そんなこと……望んでないよ。あなたが“笑ってる未来”をきっと願ってたよ』
遥は堪えきれず泣き出し、机に顔を伏せた。
零は静かに窓辺へ歩き、雨に濡れた夜を眺めながら告げる。
「遥。最後にひとつだけ聞かせろ」
遥は涙で濡れた目を上げた。
「……なんでしょうか……?」
「夫と過ごした日々は、本当に呪われていたのか?」
遥は、泣きながらも微笑んだ。
震える声で──しかしはっきり答えた。
「……幸せでした。あの人と過ごした時間は……
全部、宝物です……」
零は静かに頷く。
「ならそれが“お前を守る灯り”だ。呪いではなく、その灯りを信じて生きろ」
遥は涙を流しながら深く頷いた。
胸の奥にあった“濁った影”が
少しずつ溶けていくように見えた。
遥は荷物を抱え、深々と頭を下げる。
「零さん……クロちゃん……本当に……本当にありがとうございました……」
クロが尻尾を振りながら言う。
『また辛くなったら来てね!依頼じゃなくてもいいから!』
遥は微笑み、事務所の扉を静かに閉めた。
──雨は、いつの間にか止んでいた。
クロが零の肩に乗り、ぽつりと呟く。
『零……人間の悪意って……ほんとに怖いね』
零は外の晴れ間を眺めながら答えた。
「怪異は“理由のない恐怖”だ。だが人は、理由と計算で人を傷つける。だから質が悪い」
クロは寄り添うように零の肩に頬をすり寄せる。
『でも……零は人も救うんだね。呪いがなくても、ちゃんと助けるんだね』
零はわずかに目を細める。
「……救ったのは俺ではない。あれは、遥自身の言葉だ」
クロはくすりと笑った。
『でもさ……零が横にいたから言えた言葉だよ』
零は否定せず、ただ静かに外の光を見続けた。
夜の闇は消え、新しい風が流れ込んだ。
今日救われたのは、
呪いではなく──
人の心そのもの。
そして零の仕事は、今夜もまた続く。




