Prologue:心の在り処
すべての記憶を語り終える頃には、イヴのカップは空になっていた。
「それが、あなたの心のすべてですね」
「……はい」
イヴは長い夢を見ていたような浮遊感を覚えていた。白いシャツの柔和な顔の男は、空のカップに紅茶を注ぐ。
「なるほど、あなたはどうやら特別な人のようです。ここがどこなのか、もうおわかりなのでしょう」
「イデア……いいえ、エデンですね」
男はイヴとはまた違った完璧な造形の笑顔を見せる。
「ええ。その及川さんという方は、恐ろしい推理力をお持ちですね。ここはイデアと実在の世界を繋ぐ場所、エデン。あなたのように、器を失った方は必ずここを訪れる」
それを聞いて、イヴはドアの方を見た。
「……ああ、心配しないでください。エデンは人の心の数だけあります。いわば人の心のデバッグルームというわけです」
「デバッグルーム?」
「ゲームをしたことはないようでしたね。プログラムが正常に動作するかどうかをチェックする空間が、ゲーム内に用意されていることがあるんです。そこは通常隠されていますが、アクセス権を持つ者か、特定のコマンドを知っている者は立ち入ることができます。話にあったように、イデアはコンピューターや仮想現実にとてもよく似ています。実在の世界はハードウェア、イデアは仮想現実となるソフトウェア、心はプログラムで動くキャラクターというわけです」
「……よくわかりません」
「失礼しました。面白いお話だったので、つい」
男は咳払いをはさむ。
「重要なのは、器を失ったあなたの心が、これからどこへ向かうのかということです」
「私の心が、どこへ向かうのか……」
「あなたの人生は、どうでしたか? 幸せでしたか? 不幸でしたか?」
改めて、これまで語ってきた自分の人生を思い出す。最後の数週間は色鮮やかに蘇ってくるが、それ以前は幸せでも不幸せでもないものだった。やり残したことは、数えきれないほどあった。
「……わかりません」
「そうですか……おや」
男は何かに気づいたように、窓の外を見た。いつの間にか雨は止んでいて、今は青い空が大樹の後ろに広がっている。
「お客さんのようです」
男が言うや否や、小さな家のドアは開いた。
戸口に視線を移すと、イヴは驚いたように薄く口を開いた。
「伏見さん……」
「やあ」
エーフェスは手を上げ、様々な感情の入り混じった笑顔を見せた。
「おかえりなさい、エーフェス」
「ただいま、ケルビム」
エーフェスはケルビムに挨拶をすると、中に入ってドアを閉めた。
「隣、座ってもいいかな?」
イヴが隣を見ると、いつの間にか木の椅子がもう一脚現れていた。
「はい」
許可を得ると、エーフェスはキッチンからカップを一つ持ってきて、イヴの隣に腰かけた。ケルビムはそのカップに紅茶を注ぐ。
「ありがとう」
エーフェスは紅茶を啜る。
「なぜ、伏見さんが……」
イヴはエーフェスの横顔を見て、疑問を口にする。
「ごめんね。君を追いかけてきた」
「そんな……」
「馬鹿だよね。残された人たちには、本当に申し訳ないことをしたと思ってる。……でも、君を見失うわけにはいかなかった。まだ話していないこともあったから」
「……及川さんが言っていたことは、事実だったのですね」
イヴは病院で交わした伏見との約束を思い出し、自分から口を開いた。エーフェスははっきりと頷く。
「あの人の予想は、ほぼ完璧だった。いつか言ったよね。魔法は実在するって。いや、“した”と言うべきかな。どれも事実に基づいた概念だ。超能力も、神話も、そして……“預言”も」
「いったい、どうやってそんなことを……」
「コロニストの秘密は血によって守られてきたって話、覚えてる?」
「はい」
「それには裏話があってね。コロニストの始祖は、アダムの直系の子孫でもあるんだ」
「……アダムの?」
「そう。僕が最初にこの星に生まれた時の器。及川さんが言った通り、アダムには少し特殊な遺伝子を持たせてあった。便宜上、“イデアル・ジーン”と今は呼んでる」
「イデアル・ジーン……。“理想的な遺伝子”ですか」
「確かにその意味もあるけれど、単に“イデアの遺伝子”と訳すのが正しいかな。その名の通り、イデアに干渉するための遺伝子……及川さんの例えを拝借して無粋な表現をするなら、イデアへのアクセスキーと言ってもいい。そして、それを持つ者が“コロニスト”となり得る」
「イデアへの、アクセスキー……」
「実際に見た方がわかりやすいかな。少し散歩しよう。留守番よろしくね、ケルビム」
ケルビムは微笑んで頷いた。エーフェスは紅茶を一気に飲み干すと、立ち上がる。イヴも立ち上がり、エーフェスと一緒に小さな家を出た。
「ここは……」
小さな家を出ると、そこは神田の図書館だった。しかし、イヴの記憶とは何かが少しずつ違う。輪郭がぼやけているように、像がはっきりとしない。
「本当はこんなイメージすら存在していないんだけどね。でもあった方が便利だから、イメージを見せている。コンピューターのインターフェースみたいなものだよ」
語りながら、伏見はソファに近寄る。
「こっちに来て」
手招きされてイヴがエーフェスの傍に行くと、
「あ……」
ソファの上では自分が寝ていた。そしてそれに覆いかぶさるように、伏見も寝ていた。
「君にも見えるでしょ? 心を失ったあとの、器の姿だ。今はただ、体を構成する物質の心がイデアに映っている」
イヴはしゃがみこんで、滲み始めている自分の顔を見た。自分だと認識することはできるが、よく見るとまったく似ていないような気もした。
気配を感じて、イヴは図書館の入り口を見た。まるでスローモーションのような動作で、何かが駆け込んでくる。
「これは……?」
「人の心だよ」
一言では形容しがたい姿だった。それは人のシルエットを持っていたが、その中には様々な像が重なって見える。人や動物だけではなく、物や風景も入り混じっていた。見知った像もいくつか混じっているような気がしたが、イヴはそれが誰なのかを判別することができない。
「生まれた時、人は本当にただの器でしかない。そこに沢山の実在が心を分け与えて、人の形になっていくんだ。人間の心は、沢山の心の欠片で構成されている。色々な側面があるから、人の心は本当に読めない」
気づくと、イヴと伏見の器を囲むように沢山の人の心が集まり始めていた。その中で、イヴにもはっきりとわかる人物が二人いた。カインとアベルだった。狭い世界で生きてきた二人の姿は、比較的統一されている。そのほとんどにイヴは見覚えがあった。
そして二人に支えられるようにして、一番複雑な心がそこにあった。それがハナだということも、イヴはすぐにわかった。
イヴはハナの心に近づき、手を伸ばす。
「待って」
エーフェスの声で、その手は止まった。
「心に干渉しようとするということは、その心の器である実在をも動かそうとすることになる。その際には、膨大なエネルギーが生まれてしまう。教会でのことを思い出せるかな。ガラスを飛ばそうとしただけで、あれだけ実在に大きな影響を与えてしまった。とても危険なことなんだ」
「あれは、やはりあなたが……」
「あの遺伝子を持つ者なら誰にでも備わっている能力だよ。“イデアに至る道は、夜にある”。この及川さんの予想も正しかった。偶発性のケースも含め、コロニストは夢によって、イデアを見ることができる。時にイデアの心の動きから未来を予測したり、イデアの心に干渉したりすることもある。これが、預言や超能力の正体だ」
「……ということは、コロニストは皆、超能力者ということですか?」
「一般的に言われている超能力者とは、少し違うけどね。イデアル・ジーンはある特殊な塩基配列を持っていて、その塩基配列がオリジナルであるアダムに近ければ近いほど、イデアに干渉できる力は強くなる。ほとんどの人はイデアを夢に見るくらいの弱い力しか持っていない。だけど、時には強力な力を持って生まれる人もいる。だから僕は、彼らを見守らなければいけない。強い力を持つと、人は傷つけあってしまうから。僕は何度も失敗して、星を滅ぼしてしまった」
「……もしかして、及川さんが言っていた神話の概念は……」
エーフェスは感心した様子で頷いた。
「君は察しがいいね。かつて、ここではない別の星系にも、文明がある星がいくつかあった。僕はその星に住む人間に、身を守る力や知識を与えた。話にあった通り、人間は僕の理解を超えて進化していった。……文字通り、神々の戦いだったよ。僕に止める術はなかった。ただ、滅びるのを待つことしかできなかった。神話の概念はここから生まれている」
「それを、あなたが体系化したのですか?」
「いいや、僕じゃない。星と星は遠く離れていても、イデアは繋がっている。別の星で生まれた心は、イデアを通じてこの星の人間にも継承されているんだ。その人たちの心に残っていた印象から、神話は生まれたんだと思う」
「心の継承……」
「そう。心の継承は僕だけに許されたことじゃない。誰もが誰かの心を継承している可能性がある。……君の心もね」
話の途中で、集まっていた心に動きがあった。カインとアベルのものらしき二つの心が、イヴと伏見の器を抱き上げる。そして二人を先頭に、一同は列を作って図書館を出ていった。
「自分の死を目の当たりにするのは、何度見ても嫌なものだね……。場所を移そうか」
エーフェスが建物の奥へと通じるドアを通り抜ける。イヴも特に疑問を感じることなく、エーフェスを追いかけた。
そこはエデンの家から出てきた際に通ったドアだったが、今はエレベーターホールへと繋がっていた。二人はそのままエレベーターシャフトを下りて、地下の通路へと入る。イヴはそこを歩いているつもりだったが、ほとんど滑っているような感覚だった。
玄関を通り、すぐにアーカイヴへと続く巨大な扉の前までたどり着いた。
「ここだけは、イデアでも実在の世界でも特別な場所なんだ」
エーフェスがそう言うと、音もなくその扉が開いていく。中の様子は、イヴがかつて見たアーカイヴとはまるで違っていた。
そこにはすり鉢状の空間があり、同心円上に弧状の書架が配置されていた。そのすべてに様々な本が隙間なく収められている。周りの壁も一面書架になっており、それは遥か高くまで伸びていた。まるで塔のような空間だった。
歩きながらイヴが見上げると、宙には数々の名画が収められた額縁が浮かんでいる。そしてそのさらに上からは光と共にありとあらゆる音楽が降り注いでいた。それらはすべて調和を保っている。
エーフェスはイヴと共に歩きながら口を開く。
「この星には素晴らしい芸術がある。僕が思いつきもしなかったようなイメージ、音楽、そして物語。他の星には生まれなかったものだ。宗教は、本当に思わぬ副産物をもたらしてくれた。……ここには、そのすべてが記録されている」
イヴは圧倒されながらも、その空間に悪魔的なまでの魅力を感じていた。人類の叡智のすべてがそこにある。知識欲を少しでも持っている者なら、心惹かれずにはいられない場所だった。
二人はその空間の中心にある円卓までやってきた。イヴは飽きることなく、周囲を見回している。
「夢でここを訪れたジーンを持つ者は、数多の創造主たちの作品に感化される。ある者は新たな創造物を生み出し、創造主となる。ある者は体験したことを創造物に昇華し、創造主となる。コロンシリーズを書くのは、その後者というわけ」
エーフェスは近くの書架から一冊の本を取り出した。黒い表紙と白い題字のハードカバーだった。
「コロニストはこの星の物語を記録するためにコロンシリーズを書く。これは、僕が書いたものの一つだ」
イヴが視線を移すと、エーフェスは“MARIA:0033”という題字を示す。
「マリア……」
「この本の冒頭は、“イデアのアハートゥ”というおとぎ話から始まる。アハートゥはヘブライ語で、一という意味でね。……彼女は僕にとって、初めての他人だった」
エーフェスは懐かしむように、その名を口にした。
「最初の器が壊れてしまったあとも、僕は彼女の心を大切に見守った。彼女は本当に無垢な存在だった。何度生まれ変わっても、彼女は僕のことを信じてくれた。僕の目的はいつからか、どうやったら彼女を幸せにできるかに変わっていった。そして、二人で作ったのがこの星だ」
話を聞きながら、イヴはエデンで目を覚ました時の既視感を思い出す。
「二人での暮らしは、大変だったけれど、とても幸せだった。この星をより良いものにするために、色々なことをしてきた。……だけどある時、僕は彼女を見失ってしまった」
「……なぜ?」
「この星は人間にとって、素晴らしい星になっていた。それゆえに、人間は増えていった。彼女を見失ってしまうほどに。その時点で、世界人口は三億人を超えていた。今と違って、情報網という概念すらない時代だ。三億人から彼女の心を宿した一人を見つけることは、至難の業だった。……だけど僕はようやく、君に出会うことができた」
イヴはその言葉を待ち望んでいたような気がした。
「……でも、私にはその記憶がありません」
「僕の場合は、その時代で最もオリジナルに近いジーンを持つ器を選んで、ケルビムに継承を行ってもらっている。イデアに強く干渉できるということは、イデアから強く干渉することもできるということ。だから僕は心を、記憶ごと器に落とし込んでいくことができる。だけど普通の人間には、わずかにしか干渉することができない。だから心を種のような状態にまで還元して、継承を行っている。記憶はないけれど、心は変わらない」
間違いなく、記憶は残っていなかった。しかし、心の奥底で高鳴るものをイヴは感じていた。
「……アハートゥ」
初めて口にした時と同じく、その名前は自分でも驚くほどに馴染んだ。
「どうして、私の心が彼女の心だとわかったのですか?」
「僕にも人の心を読むことはできない。だけど、人の心の形の微妙な違いが、僕にはわかる」
「私の……彼女の心の形を、覚えていると?」
「他の誰かだったらわからないかもしれない。だけど、アハートゥは僕にとってかけがえのない心だ。イデアでも、実在の世界でも、とても長い間一緒に過ごしてきた。忘れることなんてできないよ。……でも、今の君はイヴだ。それ以外の何者でもない」
言われて、イヴはうっすらと微笑んで頷いた。
「……さて、僕が君に話したいことはすべて話した。座ってくれる?」
エーフェスはそう言って、円卓の椅子を引いた。イヴは礼を言って、そこに腰かける。エーフェスは対面にある席を選んで座った。
「本来はケルビムの役目なんだけど、僕が代わりに問うね。君は選ぶことができる。ここに残るか、もう一度実在するか」
いつの間にか、円卓の上には二つの赤い実が置かれている。
エーフェスは片方の実を指して言う。
「もし君がここに残りたいのなら、この実を食べるといい。君はこの世界で、不幸ではないが幸せでもない、永遠の存在となる」
エーフェスはもう片方の実を指して言う。
「もし君がもう一度実在したいのなら、この実を食べるといい。君の心は種にまで還元され、この星に生きる誰かに継承される」
イヴは一見同じような二つの実を見比べて、次にエーフェスの目を見た。
「一つだけ、質問させてください」
「なんだい?」
「あなたは、なぜ生まれたいと願ったのですか?」
エーフェスは穏やかに笑った。
「それが心に最初から備わっている機能だからだよ。“生まれたい”という意思だ。お腹の中の赤ちゃんが、母親のお腹を蹴るような強い意志。それは生物や物質の心だけじゃない。創作物だって、頭の中に存在しているだけじゃ我慢できない。実在させてほしいと、創造主の頭の中を暴れまわるんだ」
「……ありがとうございます。よく、わかりました」
「……君は、どちらを選ぶ?」
「答えはあなたが今言った通りです。私は、もう一度実在したい」
エーフェスは驚いたような表情を見せる。
「……本当に? また、辛い人生が君を待っているかもしれない」
「同時に、幸せな人生が私を待っている可能性もあります」
エーフェスは困ったように目を伏せた。
「正直なところ、僕は君に、ここに残ってほしい。……また、君を見失うのが怖い」
イヴは幼い子供を見るように微笑む。
「私には、まだまだ体験したいことが沢山あるんです。色々な勉強をして、色々な本を読んで、色々な場所を旅して、恋をして、結婚して、私の子供を授かりたい。そして家族に囲まれて、幸せな最期を迎えたい。そのために必要な不幸なら、乗り越えて見せます。あの世界は、私にそう思わせてくれるほどに……美しかった」
最後の言葉にエーフェスは目を閉じて、口元をほころばせた。
「……それがイヴとしての君の願いなら、僕には止められないね」
イヴは強い意志の宿った顔で頷き、知恵の実を手に取る。
「……ただ、一つだけお願いがあります」
「言ってごらん」
「次の私の人生も、あなたの傍で過ごしたいです」
「――え?」
「また、私を見つけてくれますか?」
その魅惑的な笑顔に見つめられて、エーフェスは溜息をついた。まるで聖書をなぞるように、イヴは蛇に誘惑されたイヴそのものだった。
しかし、“蛇は誰の心にもいる。そして、蛇が絶対悪であるとは限らない”。エーフェスはかつて愛した人に言われたその言葉を、一度も忘れたことはなかった。
「……君は変わらないね。約束するよ。必ず君を見つける」
イヴは嬉しそうに笑うと、その実に口をつけた。
その瞬間イヴの姿は消え、エーフェスの足元に赤い実が転がる。それを拾い上げて、エーフェスは目を細めた。
「――また僕を救ってくれて、ありがとう」
この作品はシェアード・ワールド小説企画“コロンシリーズ”の一つです。
http://colonseries.jp/




