バー〈ホーネス〉
二人用のテーブル席へと案内され、腰をかけた。霞は黄色、賢治は紫色の椅子。
上着を脱いですぐに霞は「すいません」と店員に声をかける。
「生二つで!」
テーブルに到着する前にそう言われた店員は、戸惑ったまま「お待たせしました」と「かしこまりました」が混じり合ったような言葉を発して、その場を離れていく。
節操のない客でごめんな、と先程の店員に心の中で手を合わせる。
「生でよかったでしょ?あ、これ食べたーい。」
賢治の返事も待たないままメニュー票に載っている料理を指差し、またも店員を呼ぼうとするので手で静止する。
「すぐビール来るからその時注文しよ。」
「はーい。」
霞がそう言うと本当にすぐにビールが二つテーブルに置かれ、霞はすかさず「ニラレバ炒め一つ!」と注文する。他にも枝豆やら麻婆豆腐やらと適当に注文して、店員が厨房に消えていくのを見て、グラスの取っ手を握った。
「乾杯!」
ジョッキが勢いよくぶつかり、ビールが溢れそうになる。勢いよくぶつかったってびくともしない〈スイレン中華〉の野太く力強いジョッキは、同じガラスなのに、〈ホーネス〉に置かれているジョッキやグラスとは全然違うものに見えた。
「あー美味い!やっぱり労働後のお酒は格別だね。」
テーブルに置かれた霞のジョッキを見ると、もう半分近くなくなっていた。
「ペース早いって、いつもそうやってベロベロになるんだから。」
「金曜日だから何してもいいの!」
気持ちは分かるがそんなことはないだろう。そう思ったが、まだ大学生の賢治が社会人の霞に、そんな正論を言う権利はないように思えて、口をつぐんで代わりにジョッキに口をつけた。
霞と初めて出会ったのはバー〈ホーネス〉でのことだ。
〈ホーネス〉は、賢治が酒を飲めるようになってちょっとした頃、二十になる少し前に、酒のペースなんて分からない友人たちとの馬鹿の大学生みたいな飲み方をした後、だいぶ酔っぱらいながら一人で歩いていた帰り道に見つけたバーだ。
テキーラにウィスキー、クライナー。今まで触れてもこなかった横文字達は、二十歳前後の若者たちにとっては新鮮すぎる刺激で、成長期の名残がまだ残っている若者たちは都度飲み過ぎてしまう。賢治もそんな大量にいるアホな大学生の渦の中のほんの一部だった。
でもそんな大量にいる大学生よりもちょっぴりアホの賢治はまだ飲み足りなくて、だらだらと帰っていた道なりにあった〈ホーネス〉のスーツを着てサングラスをかけている猫のキャラクターがモチーフになっている看板に目が止まった。一人でバーに入る勇気なんて当時の成人成り立ての若い賢治にはある筈もなかったが、そんな臆病さなんて打ち消すぐらいに酔っていた賢治は勢いのまま〈ホーネス〉に突入した。
オレンジ色の鉄製のドアを開けて、地下へと伸びている階段を踏み外さないよう酔っ払いながらも一段一段慎重に下っていった。
降りた先にもう一個ある、今度は木製の軽いドアを開けると、鈴の音がカランと音を立てた。
「いらっしゃいませ。」
バーテンと思われる、黒髪のショートボブの綺麗な女性の声がバーに響いた。
「こちらへどうぞ。」
女性の手が指す方へと吸い込まれるように、暗い店内を歩き、席についた。角を挟んで斜め向かいの席に金髪の派手な装いの女性が座っている。
「何飲まれますか?」との問いかけに賢治は間髪いれずに「ハイボールで」と答えた。
ただでさえ知っている酒のラインナップなんて少ないのに、酔っ払って回らない頭では、思い起こせる酒の種類なんてビールとハイボールと、カシオレしかない。ビールはもう入らないし、カシオレは二十歳のちっぽけなプライドが飲むことを許してくれなかった。
「かしこまりました。」
バーテンの女性が手際良くウィスキーの瓶を持ち、あまりにも透明で綺麗なグラスの中に手際良く注いでいく。その間、手持ち無沙汰で店内を見渡していると、カウンターから見て右側の壁に飾られた何枚ものレコードと、DJブースが目に映った。薄暗く光るオレンジの色の照明に照らされた無人のDJブースは、やけに目を引くぐらいに異質で、魅力的に見えた。
「いつもはね、あそこでDJしている人がいるの。」
DJブースに釘付けになっていると、斜め前に座っていた女性が声をかけてきた。酔っ払っているのか、頬を赤らめながら口角を上に上げていた。
「そうなんですね。」
そう言って、コースターの上に置かれたハイボールを一口含んだ。美味しい。先程まで、居酒屋で飲んでいたものと同じ名前なのに、全然違うものを飲んでいるみたいだ。口に入れた時の嫌な感じもないし、喉に通した時のビリビリとした不快感もない。本当に同じ飲み物とは思えないくらいだった。
「結構若くない?大学生?」
女性は遠慮なく賢治に質問を浴びせてくる。何杯飲んだのだろうか、頬は真っ赤に染まり上がっていた。
「今大学二年生です。」
「かーっ、大学二年生だって。ねぇ、ママ、めっちゃ若いね。」
「霞だってまだ四年生でしょ。私からしたら何も変わらないわよ。」
この金髪の女性は霞というらしく、バーテンの女性は名前は分からないが、ママと呼ばれてるらしかった。
「全然違うよ、ママ。自分が二十歳前後だった時を思い出してよ。大学一年生から見た三年生はかっこよく見えたでしょ。」
「忘れたわよ、そんな昔のこと。そもそも私は大学に行ってないし。」
パッと見た感じ、ママと呼ばれる女性は三十前後くらいかと思っていたが、話ぶりを聞いているともう少し年上のようであった。
二人の会話をぽかんと見ていた賢治のママの目が合い、ママは少しきまづそうに咳払いをした。
「んん、ごめんね。この子は霞っていうの。多分君の二、三個上だけど、あんまり気遣わないでいいからね。あと、私のことはママって呼んで。」
「霞ちゃんでいいよ!」とヘラヘラする霞を見て、「はぁ」と賢治は気の抜けた返事をしてハイボールを口に運んだ。
「じゃあ、ママさんハイボールを一つお願いします。」
「ママでいいわよ。」
余程酔っていたのだろう、そう言ってママが作ってくれたハイボールを一口飲んでからの記憶は底で途切れている。
朝起きた時には自分の家のベッドの上にいて、賢治はその時人生で初めての二日酔いを経験することになる。ガンガンと痛むの中で、ぼんやりと昨日のことが思い出されていく。
綺麗なショートカットのママ、金髪のアホそうな大学生、オレンジ色の照明にスポットライトの様に照らされた無人のDJブース。後は、あまりにも綺麗なグラスが脳みそに残っていた。
その後も何度かその店に月に一度ほどちょいちょいと顔を出し、その度に段々と通うペースは上がっていき、今では多い時で週に四回ほど行く様になってしまっている。
彼女も出会った当時はまだ大学生だったが、いつの間にか二年の月日が経って社会人になっていた。
「働きたくない」、「就活したくない」と毎日のように〈ホーネス〉で酒を飲んで愚痴を吐いていた霞も、今ではもう立派に社会人だ。元々興味のある服飾の分野で内定を獲得し、愚痴をいいながらも日々働いている。
「てかさぁ、聞いてよ。」
霞の愚痴が始まる時のお決まりの合図だ。上司がどうだの、本当はこういうことがしたいだのと仕事に纏わることが大半なのだが、賢治はその愚痴を聞くのが好きだ。
まだ大学生で社会を知らない賢治からしたら経験したことのない新鮮な話題ばかりで興味深い。
今日もいつもと変わらず仕事の愚痴から始まり、あれやこれやと色々なことを話した。今何杯酒を飲んだのかも分からないし、霞も顔を真っ赤にして酔っているようだった。
枝豆に手を伸ばしたとき、霞が面白そうな話題を出した。
「ね、ママの好きな人知ってる?」
「え、誰それ。」
「気になる?」
「めっちゃ気になる。」
ふふ、と得意げな顔をして霞はニヤけ顔をしている。
「ホーネスのDJさん。あの、黒いキャップ被ってる。」
「え、あそこのDJブース人いるんだ。いつも無人だからいないんだと思ってた。」
「あれ、賢治まだ会ったことないんだっけ。いつも黒いキャップ被ってて、結構無口で大人っぽい人。意外だけどミステリアスなとことかちょっと惹かれるの分かるかも。今度ホーネス行った時ママに問い詰めてみよ。」
そうしよ、との賢治の声と被るように、すいませーん、お席時間でーすとの店員の声が聞こえた。




