霞と〈夕福町〉
〈石井精神科〉を出て、そのまま繁華街の方へと歩いた。人も車通りも少なくなったせいなのか、先程よりも冷たくなった秋風が、今度は頬を刺すように当たってくる。風の当たる顔半分がヒリヒリと痛くて、片手で申し訳程度に顔半分を守りながら早足で歩いた。落ち葉が踏まれる音を楽しんでいる余裕がないほど、風は想像以上に冷たくて、痛かった。
そのまま十分ほど風と戦いながら歩き続けると、ビカビカと輝く照明が散らされている〈夕福町〉と書かれた繁華街の入り口の看板が見えた。たくさんのビルが立ち並ぶこの繁華街は賢治と霞が酒を飲みに来る時にいつも訪れる町で、もう何度この看板の下を跨いだのか数えるのが不可能なくらいにはこの町に訪れていた。裕福とはかけ離れたこの町の看板の下を跨ぐたび、〈夕福町〉なんて胡散臭い名前だな、と思いながらも、また今日もその看板の下を跨いだ。
〈夕福町〉に入って少し歩いただけで、黒いピチピチのパンツを履いたキャッチや派手なドレスを着たキャバ嬢が「どうですか。」と誘いをかけてくる。それらの誘いを無視しながら、人と人の間をするするとすり抜け、煌びやかな大通りから一つ外れた〈すみれ通り〉へと入っていく。
一つ外れただけなのに、〈すみれ通り〉は街灯がほとんどなく、通り全体が暗い。キャッチも夜職の女の子たちもいなければ、大通りみたいに派手なお店もない。大通りが栄える前からあるような古びたスナックや飲み屋が、細々と薄暗い光を放つぐらいだ。
そこら辺に整備の行き届いていないゴミ捨て場や公衆便所があったり、ホームレスが所々いたり、何やら物陰でコソコソと取引をしている人影が見えたりと、〈すみれ通り〉は先程の華やかな〈夕福町〉の汚い所を全部集めたみたいな場所だった。
〈夕福町〉の大通りが栄え出す前はこの〈すみれ通り〉も昔は人や店が賑わい、かなり栄えていたらしいが、今では見る影もない。最も、それも賢治が生まれる十年以上も前の話なので、こんな暗い通りが光り輝いていたなんて想像もできない。
そこでも、タトゥーが腕びっしりに入ったイカつい見た目をした男の「葉っぱ、五千」という誘いなのか呟きなのか分からない言葉を無視してただただ目的地へと足を動かした。目的地へと歩く途中、だいぶ前から潰れて無人となっていた居酒屋の入り口で、ホームレスなのかただ飲み潰れただけなのか分からないが、そこに男が一人座っていた。スーツのようにも見えるし、ただの薄汚れた服を着ているようにも見える。妙に気になってちらと視線をやると、男は瞬時に顔を賢治の方への向け、その力強い目力で、賢治が浴びせた何倍もの力で視線を浴びせてくる。
思いもしない男の目線に急に怖くなって賢治は足早にその場を去ろうと動かした。逃げながら横目で男を確認すると、また男はこちらを見ていた。
怖。来るたび来るたび、何なんだこの町は。
〈夕福町〉の大型映像や煌びやかなネオンが無理に明るく光ろうとすればする程、この町の影はどんどんと濃くなっていくようだった。
*
〈すみれ通り〉を少し歩き、またその隣の〈すいれん通り〉に入ってすぐの所に、目的地である〈スイレン中華〉はあった。大衆居酒屋であるのに本格的な中華料理があるのと、タヌキのイメージキャラクターが可愛い。店内の内装は、黄色と紫の原色を基調としたカラーリングで、机も椅子も丸みを帯びていて可愛らしいデザインのもので統一されている。
金曜や土曜だけでなく、平日に来てもいつもお客さんでパンパンに埋まって賑わっており、各々が周りを気にせず自由に会話を楽しんでいるこの店が、賢治は好きだった。
賢治と霞が飲む時は決まっていつもこの〈スイレン中華〉だった。
アイホンのロック画面が示す時刻は午後七時三分。集合時間から三分過ぎているが、霞からの連絡はない。二人にとって遅刻するのも、遅刻が十分以内なら連絡しないのも、いつものことだった。
〈石井精神科〉に向かっていた時から気づくともう二時間近く経っていて、先ほどまで鮮やかなオレンジ色をしていた空も、もうほとんど真っ暗と言っても差し支えないほど濃いめの紺色になっていた。はぁ、と口から吐き出た息が白い。ついさっきまでよりも空気が冷たく感じて、思わず両手をポケットに突っ込んで握りしめた。
ふと店のガラス越しに店内を見ると、学生と思われる若者やスーツを着たサラリーマン達で店の中は盛り上がっていた。手を叩いて笑う人や、握手しながら泣きそうになる人、それを冷めた顔で見る人に飲み過ぎて気持ち悪そうにしている人。〈スイレン中華〉という一つの灰色のコンクリートの建物の中で、それぞれ色が違う、幾つもの人生が混じり合っていた。
「お待たせ。」
耳元で霞の声がして、振り返るとまた今日も派手な服に身を包んだ霞の姿があった。真っ赤なリップにヘソが出るくらい丈が短い黒のニット。ブラウンの分厚めのフード付きの上着を着ているが、穴だらけの太めのダメージジーンズも相まって、見ているだけでこっちが余計に寒くなるようだった。
「寒いだろ、その格好。」
「まぁ正直寒いけど、可愛いからいいの。」
昨日買ったばかりの古着のフライトジャケットのポケットに手を突っ込んで、肩を縮こませて小さくなっている賢治には、死んで生まれ変わったら漸く分かるぐらいの感性で、詰まるところ、全く理解できなかった。
「風邪ひくよ。」
「えー、賢治君優しい。好きになっちゃう。」
芝居がかった霞の台詞に、小声で「キモ」と呟くと、「てか寒いんだけど、早く店の中入ろうよ。」と一瞬で冷たい表情へと変わり、耳元の銀色のピアスを揺らしながら顎で店の中へと催促してくる。
そっちが遅刻したおかげでこっちは十分近くこの寒空の下で晒され続けたんですけど、なんてことは言える訳もなく、「はい、すいません」と情けない声を冷え切った外の世界に残して、汚い〈夕福町〉から、二人は〈スイレン中華〉の中へと姿を消していった。




