石井精神科
クシャリ、クシャリ。
大学を出た街の方も、落ち葉は道を覆い尽くすようにあった。
大学でもそうしていたように、踵から靴をコンクリートの上に置き、ゆっくりつま先の方へと力を入れていく。
クシャリ。
こうした方が、落ち葉が潰れる音がはっきりと耳に気持ちよく届く気がした。その後も、楽器となった踵とつま先を使って、コンクリートと足の裏で音を奏でながら歩いた。
もうすっかり十月の色になった街は、午後五時になる頃には日を落とし始め、空を青と黒が混ざり合ったような色にしている。遠くにある差し色のオレンジが消えていく姿を見て、何故だか寂しそうに見えた。
道に等間隔で並べられた丸い街灯が同時にピカピカと光りだして、道を照らしていく。研究室にある細長い棒状の白熱灯から出る光は嫌いだが、街の街頭の白い光だけはどこか好きだった。
街頭の白い光を見ながら歩いていると、目の前を風が通り過ぎた。落ち葉が帰り支度をするようにバサバサと宙に舞い、賢治の足元の演奏は中断を余儀なくされる。
その後も風は吹き続け、賢治が着ている上着を貫通して体温を下げていく。
それでも着ていないよりはマシだ、とポケットに手を突っ込んで身体を縮こませて歩いた。綺麗になった道の上で、退屈だと足が文句を言っている。
*
その後も十分ほど歩いて、目的地に到着した。
大きな字で〈石井精神科〉と書かれた看板が建っている。ポケットのスマートフォンを取り出して見ると、時刻は午後六時前だった。
予約の時間ぴったりだ、と入り口のガラス製の扉を押して中に入ると、受付の看護師が怪訝そうな顔をしているのが見えた。
「六時で予約の中澤です。」
このあからさまに眉間に皺を寄せている看護師は入江という。この病院に来たばかりの時はニコニコ営業スマイルだった気がするが、数年前から賢治が来る度顔を曇らせ始め、ここ最近ではあからさまにしかめ面をするようになった。今日は眉間の皺が一段と濃く見える。
怪訝そうな顔をしている入江に保険証を見せて受付を済ませた。受付が終わる最後の最後まで怪訝そうで、最後には雑に診察室前のソファへとへと案内された。
なんなんだこの看護師は。
言われるがまま病院の廊下を進み、少し色褪せた緑色のソファの前に立つ。何度このソファに腰を下ろしたのだろうか。そう思いながら腰を下ろすと、ソファの足の方からギッと音がした。
ソファに座りながら診察室横の掲示板に目をやると、健康や病気関係の、色褪せたポスターが何枚も貼られている。
このポスターももう何度見ただろうか。名前もうろ覚えのずっと昔に人気だった女優が人差し指を立てて、『健康管理!』と書かれた吹き出しの横にいる。吹き出しの左下のポスターの発行日を見てみると、ニ◯◯七年九月と書かれていた。
そりゃこんな色褪せる訳だ。
もう何度も見て見飽きたポスターにはあまり興味もなく、スマートフォンをなんとなく眺めていると、
「どうぞ。」
と聞き慣れた声が診察室の中からして、ドアを開けた。
「こんばんは、三ヶ月ぶり。」
と医師の石井が言うので、賢治も「こんばんは」と繰り返す。
この猫背で、もじゃもじゃの天然パーマに牛乳瓶みたいにレンズが分厚い黒縁メガネをかけている男は石井という。賢治のかかりつけ医だ。
毎回来る度に、医師というよりもポンコツ研究者みたいな身なりだなと思う。カルテを眺める姿よりも、試験管を持って薬品を調合している方がよっぽど様になる気がした。
見た目はまだ四十代、人によっては三十代後半にも見えるのかもしれないが、おそらく石井はもう五十代後半に差し掛かる。賢治がこの病院に来るようになったおよそ十年前、「もうアラフォーになるんです」と母親にぼやいていたのを何故だか今も覚えている。
その十年ほどで、石井の目立つ変化といえば口元の皺が少し濃くなった気がするのと、メガネの度を強くしてさらに目が小さくなったぐらいだ。
「君は本当に夜間診療の時間ばかりに来るね。入り口の入江が嫌そうな顔をしていただろう、この予約が無ければ彼女は今日、日勤で今頃とっくに帰っていたからね。」
この病院のシステム上、夜間に予約できるようになってるんだからそんなの知らなんがな、なんて思ったが、「本当は今日彼氏とデートだったらしい。」と聞いて少し申し訳なくなった。
「今日はなんでまた夜間に?」
「大学の卒業論文が終わらなかったんだ。」
半分嘘だ。卒業論文が終わらなかったのは事実だが、今日夜間診療にしたのは、秋の夕方の涼しい空気を味わいたかったからだ。
だが、看護師にデートを断らせて働かせている手前、別に悪いことをしているわけではないがきまり悪く、半分嘘をついた。
「なら仕方ないか。まぁ、そうじゃないにしたって君はいつも夜間に来るから慣れてるけどね。」
石井の首からネームプレートがぶら下がっていて、『医師 石井』と書かれている。見た目はポンコツ化学者だが、名前は医師になるべくしてなったみたいだな、と何度見ても思う。
まだ小さく幼かった頃は「イシイシイ」とよくふざけて呼んでいた。上から読んでも下から読んでも『イシイシイ』なのを当時は面白がっていた。その度に付き添いの母親に叱られ続け、一人で来れるぐらいの歳になってからはさすがに賢治も「石井さん」と呼ぶようになっていた。今でも面白い名前の医師だとは思ってはいるが。
「それで、記憶の方の調子はどうだい。何か思い出した?」
先程までのふざけた様子とは違い、石井は慎重な面持ちをして聞いた。
「いや、何も思い出せてないよ。今までの何も変わらない、普通のハッピーライフのまんま。」
「そうか、それなら、まだいいんだ。」
数分前までヘラヘラしていたのに、石井は急に顔を曇らせ、何やら難しそうな資料がたくさん乗っているデスクの方へと目を背けた。
「君の記憶障害を診るようになって、もうそろそろ十一年が経つな。」
記憶障害、それは賢治が今現在患っている症状だった。
賢治は十一歳から十二歳にかけての記憶がほとんど抜け落ちており、全く思い起こすことができない。大きな事故や事件に巻き込まれた訳でもなく、周囲の人間もみんな賢治の記憶障害の原因について何も心当たりがないと口を揃えて言っていたため、記憶を取り戻す手掛かりもなく八方塞がりだった。
だが今は大学にも来て一人で暮らせているのだから、賢治にとって大きな問題ということもない。実際、賢治は今日の診察よりも、この後霞と飲みに行く予定のことで頭はいっぱいいっぱいだった。
「十一年か。」
石井が呟いた。
十年ほどだと思っていたが、ちゃんと考えるともう十一年も経つのか。今が二十三歳なのだから、初診に来たのは十二歳ということになる。それぐらいの月日が経っているのであれば、ソファの足から軋む音がするのも、ポスターの色が褪せ切っているのも、納得がいく。というかそろそろポスターは変えてもいいのではないか。何故あんな今にも剥がれ落ちてどこかへ飛んでいきそうな紙切れをいつまでも貼り続けているのだろうか。
そんなどうでもいいことを考えている賢治とは裏腹に、石井はどこか神妙な面持ちをしていた。
「まぁ、とりあえずまた来てくれ。次はいつもみたいに三ヶ月じゃなくて一ヶ月後に来てくれ。今回も診療代を騙し取ってるみたいになってしまってすまないね。」
「一ヶ月?なんだ、もっとハイペースで診療代を巻き上げようって訳?」
「そうじゃない。とりあえず、一ヶ月後だ。ここからしばらくは一ヶ月ごとに来てくれ。」
賢治は冗談のつもりで言ったのだが、石井はモジャモジャの頭を掻きむしりながら真面目な顔をしていた。
なんだかいつもと様子が違う石井を見て、「おっけーじゃ一ヶ月後ね」と言いながらそそくさと診察室を出た。
何なんだ今日は。石井といい、入江といい、なんだか変な感じだ。
歯痒い感じがして、帰り際、ポスターの女優にデコピンをかますと、紙が思った以上に脆くなっていたのか破れてしまった。女優の顔に亀裂が入って顔の中心に掲示板の無機質な緑色が広がっている。
紛れもなく犯人は賢治なのに、全く何のことか分からないといった知らんふり顔をして廊下を出た。ふと右へと目をやると、受付の入江と目が合う。賢治を見るや否や、澄ました顔がだんだんしかめ面になっていく。
「ごめんなさいね、デートあるのに予約いれちゃって。俺が来て記念すべき十一年目の、こんな気持ちいい気候の日なのに。」
「え、十一年目。もうそんな経ったんだ。」
そう言うと、入江のしかめ面はみるみるう内に消えていって、最後には悲しそうな顔だけが残っていた。
そんな顔をするほど十月にデートがしたかったのか、それは申し訳ないことをした。だかそれはそうと今日の入江は表情豊かで面白いな。
そんなことを思いながら、「じゃあね」と言って〈石井精神科〉を後にした。




