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賢治の記憶の全て

 「ばあちゃん。」

 緊張していつもより低い賢治の声に、タミコはびくりと肩を振るわせて後ろを振り返った。編み物をしていたのだろうか、手には糸が絡ませられた木製の棒があった。怪訝そうに賢治を見ながら、「なんの用だい」と掠れた弱々しい声が狭い和室に言葉が響く。警戒しているような、でもどこか悲しそうな声だった。

 「ばぁちゃん、俺を虐待していたのは誰?」

 「知らないよ、そんなの。あんたが虐待されていたこと自体、私は」

 「お母さんだよね。」

 タミコの言葉を遮るように賢治は口を動かした。早それは、もうこれ以上孫を傷つける残忍な老婆をタミコに演じさせないという、優しさの匂いがした。

 あの日の夢の中の、ドアの先にいたのはタミコじゃなかった。あのドアの先にいるのは、間違いなく、何度も見たはずの母親だった。信じられない感情をに夢は知らん顔で、弾ける様に夢は覚め、あっという間に現実に引き戻された。

 タミコは口を動かさない代わりに、裁縫道具をすぐ側の年季のある木製の机の上に置いた。窓から溢れた夕陽が狭い和室に差し込み、セミが短い命を燃やしながら懸命に鳴いている。飲んで遊んでは絶望して過ぎていった賢治の一週間で命を全うするセミたちは何を思うのだろうか。セミの鳴き声が響いているこの瞬間、この瞬間が、いつまでも続けばいいと賢治は思った。知りたくもない真実も、自分の愚かさも、この時間がずっと続けば何も知らなくて済む。家のすぐそこのヒノキの木に止まっているセミたちさえ鳴き止まなければ、この時間はずっと続くかもしれないのに。心に新しい傷を負わなくて済むのに。

 そんな賢治の期待とは裏腹に、一匹、また一匹とセミは羽をバタバタと響かせながら夏の空の中へと消えていった。

 ミンミンミンミン、ミンミンミン、ミンミン、ミン、、、バタバタバタバタ。

 セミたちの姿が雲の方へと消え、羽がばたつく音すらも聞こえなくなった頃、タミコがようやく口を開いた。

 「私だよ、あんたを虐待したのは。あんたの母親じゃない、私だよ。私が、あんたを、傷つけたんだ。」

 「もういいよ、ばぁちゃん。」

 掠れているような声が辛うじて賢治の耳に聞こえる。もう、いい。賢治はそう思った。

 賢治の言葉に、タミコの肩は力が抜けたように項垂れて、首からつながっている頭もだらりとただぶら下がっているようだった。

 「誰から聞いたんだい。」

 「さっき、じいちゃんに。」

 「あぁ、そうかい、もうそんな時期かい。もう、何年も経ったもんね、なんなら遅いぐらいか。それよりもあいつ、勝手なこと言いやがって、、、。」

 あいつ、という発言とは裏腹にタミコの声色は優しく、もう肩張っていない後ろ姿は、そこら辺にいる優しい老婆となんら変わりなかった。

 賢治がまだ小さい頃、近くの公園にある四人乗りの珍しい形をしたブランコに、よく賢治と祖母の二人で乗った時のことを思い出した。もう何でかなんて分からないが、賢治はそのブランコが好きで、タミコが「ないしょだよ」と言っていつも買って冷凍庫で冷やしてくれていたアイスキャンディーを舐めながらブランコに乗っていた。賢治は右側で、タミコは向かいの対角線側。記憶の中の公園はいつも晴れていて、タミコはいつも笑っていた。今思うとその頃の賢治はタミコの笑っている顔以外の顔を見たことはなくて、今の祖母はしかめ面なのに、まるで当時と同じように思えた。

 「言っとくけどね、私はあんたを守ったなんてつもりはないからね。ただ、あのバカ娘が小さい子どもに手を出しているのがむかついただけさ。どうしようもないバカ娘の癖に、そんな小さい自分の息子にまで手を出すなんて自分の娘としてみっともなくて見てられなかったのさ。全部私のため、ただそれだけ、あんたのことなんて、どうでもいい、のさ。」

 そういう言いながらタミコはその鋭い目から涙を流していた。後ろ姿しか見えていない賢治でもタミコの目から涙が溢れていると分かった。抜けたはずの力がこもり上下する肩に、鼻を啜り、嗚咽を漏らす老婆の後ろ姿を見て、泣いていると分かりたくなくたって分かった。

 「どうでも、、、!」

 涙でぐしょぐしょになった顔と声で、タミコはまだ嘘をつき続けた。

 「ばあちゃん、もう言わなくていいよ、、、。」

 「ごめんね、私のせいなんだ、、、!」

 タミコの声は先程よりも嗚咽がひどく混じりながら搾り出されていた。声を上げて泣いていて、怯えているようで、今度は親に叱られて泣いている小さな子のように見えた。

 「私が、私が、、、あの子を虐待していたんだ。毎日、毎日っ、あの子を罵った。死んでほしい、殺したい、産まなきゃよかった。毎日、毎日罵った。飯を与えない日もあれば風呂に入れさせない日もあった。普通の子どもが、ガキが、当たり前に貰える小遣いで当たり前に遊んでいる間、私はあの子に働かせた。あの子の時間を奪って働かせて稼いだ金を、私は奪った。高校生が頑張って稼げる金なんて、よくて数万円ぐらいさ。たかだか数万ぐらいを、私はあの子を怒鳴りつけて取り上げた。高校生の貴重の時間を捨てさせて、周りと同じになるために、勉強も部活も遊びも全部捨ててあの子が働いた金を、私は、取り上げた、、、。」

 咽び泣く祖母の横に、盆栽用の鋏が西陽で光を照らした。

 「高校を卒業してしばらくしてから結婚して、その後数年してからあの子に子どもが、あんたが産まれたと聞いた時は本当に嬉しかったさ。小さくて可愛くて、あの子に似ていてとても愛らしかった。まさか生きている内に孫の顔が見れるなんて思いもしなかったからね。これから子育てだ、という忙しくなるタイミングでも、あの子は私に頼ろうとはしなかったけどね、やっぱり片親じゃ大変だろうと思って無理言ってあんたの子育てを手伝わさせて貰ってたんだ。今思うと、親切心以上に、償いがしたかったのかもしれないね。それであんたが小さい時は一緒に遊んだり、あぁ、あんたはぶどう味のアイスキャンディーが好きだったね。小学校に上がってからはご飯を作ってあの子の家に持って行っていた。あんたも元気な子でね、小さい頃は毎日ブランコブランコって聞かなかったんだ。小学校に入ってからも毎日友達と遊んで、鬼ごっこなり、小さいゲーム機を使ったりして楽しそうにしていたよ。

 でもね、あんたが小学五年生になったぐらいから、あんたの様子が徐々におかしくなっていったんだよ。それまでのあんたは放課後友達と遊びに行って、帰ってくるなりお腹が空いたと言ってたらふく飯を食って、その後すぐ風呂に飛び込むような子だった。でも何故かその辺りから、徐々に友達と遊びにも行かなくなっていって、飯もほとんど食わないし、風呂にも入ろうとしない。テレビも見なけりゃゲームなんて触りもしない。ただただ机の前に座って天井を見つめるようになっちまった。私は、まだ小さい子が大人みたいにどうしたんだい、いじめにでも遭ってるのかい、と思ってあの子に相談したんだよ。そしたらあの子は「知らない。反抗期なんでしょ。」って冷たく言ってね。私ももうそういう年頃なのかと思って放っておいたんだが、でもどうしても心配になって、その日の夜遅くにあんたの家に行ったんだよ。合鍵は持っていたから鍵を開けて勝手に家の中に入ったんだ。」

 西陽が徐々に消えていって、部屋の中を暗くしていった。日陰の中に押しつぶされそうで、窓の外の太陽は水平線の下に消えようとしている。

 「そしたら、あんたの上にあの子が馬乗りになって、あんたの小さい顔に拳を振り上げていた。あんたの顔は涙と鼻水でびしょびしょなのに、あの子が何度も連続で殴るせいで、嗚咽を漏らすことすらできていなかった。私が作った料理もひっくり返されて床に散らばってぐちゃぐちゃになっててさ。あんたが好きだって言ってたから作ったハンバーグもべちゃべちゃの埃まみれになっていた。最初その光景を見た時、何も分からなかったけど、あんたが泣いていることだけは分ったから、急いであの子に後ろから飛びついてあんたから引剥がしたんだ。あんたから引き剥がされたあの子は何か訳の分からないことを喚いていて、あんたは漸く許された嗚咽を部屋いっぱいに泣き声を響かせていた。」

 私を押し潰そうとしていた日陰が縮まるのをやめた。太陽が、意地悪そうに水平線から私を嘲笑うように西陽を照らしている。

 「私もなんとかうるさい鼓動を落ち着かせて、あの子の言うことをよくよく聞いてみたんだ。そしたら、『あのバカ旦那のせいだ!』『お前の目を見ているとあいつを思い出すんだよ!』とか喚いて、暴れて、その後も散々色んな人のことを罵った後に、最後に私を見て、『全部お前のせいだ』って私に言ったんだ。憎悪に塗れていて、殺意だの承認欲求だの、なんだか色んな感情がごちゃまぜになったような、真っ黒な目をしていた。」

 吐きたいのに、吐けなかった。嗚咽すらも吐く気すらもしなくて、内臓全部がもうやめてくれと泣き喚いていた。

 「そう言われた後、目をやるとあんたは床に落ちた料理を手で掴んで口に運んでいたんだ。好きだったはずの、あんたの喜ぶ顔を想像して作ったハンバーグを、埃まみれのぐちゃぐちゃのハンバーグを、あんたは泣きながら、咽せながら喉奥に流し込んでいた。散り散りになったサラダも、嫌いだと言っていた大豆の和物も、煮物も、煮物の周りに床に広がった汁すらも、溢れた湖みたいな涙すらも、全部舐めて胃に無理矢理流し込んでいたんだ。全部を胃に押し込んだ後に、私たちを睨みつけた。怖かった、あの時のあんたの目は。殺意の様な、憎しみのような、ともかく子どもがする目じゃなかった、、、。ずっと睨み続けた後、あんたは声をあげて、当たり前だけど、小さい子みたいに泣き始めた。さっきよりでかい声で、耳を塞ぎたくなるほどのでかい声で。でもあんたのその声よりも、あんたのその目を見て、私も、あの子も、怯えて動けなくなった。まだ十年ちょっと生きた子からの、性別なんて関係ないくらい小さい身体の子からの憎悪に。咽せ返って胃から食ったもんが出そうになっても、あの時のあんたは小五の小さい手で口を押さえて無理矢理押し込んでいた。食い物も、涙も、鼻水も、全部、全部押し込んで。

 全部押し込んで、何もかもを血肉してやろうという泥臭さがもうその時からあんたにはあったのかもねぇ、、、。床に落ちた何もかもを喰らい尽くすあんたからはそれを感じざるを得なかったよ。得られるものなら何もかもを奪い去ってやろうみたいな、貪欲よくさというかエネルギーというか、あんたからはそんな恐怖を感じたね。」

 必死に口を動かしているタミコを下目に、賢治はただ目前の太陽を見つめていた。たかだか数分では移り変わりもしない景色に、安堵感を覚えていた。

 「でも、あの子がしたことは私がしたことが招いたことさ。現実問題としてやったことはあの子が悪いとしても、その背景にいるのは私さ。だから、全部背負い込もうとしたんだ。あんたが記憶障害になったタイミングで、あんたに虐待したのは私だって思い込ませようとしたんだ。あの子はただあんたを愛していることにして、あの子が吐いた暴言も、食べ物を取り上げ続けたことも、あんたをめちゃくちゃ傷つけたことも、全部全部私にのせいに。それをあの子に提案した時、あの子は笑っていたんだ。『美味しい思いだけして、罪は背負わなくていいのね』って。その後も何度もあんたに手を出すあの子を止めては、私がやったんだって何度も私はあんたに言い聞かせた。

 もう二度とあんたにアイスキャンディーは与えられなくなった。泣いているあんたを見て、何度も、何度も、死にたくなった。あんたが、生まれる前に死んでいられたらなんて楽なんだろうて思った。。でも、あんたがこんなに大きくなるまで生きちまった。これは、神様が私に与えた天罰かもしれない。

 今、なんで私がそんなことをあの子にしたのかなんて分からない。本当に、なんであんなことをしたのか分からないんだ。でも、やってしまったことは変わらない。今更、あの子に謝ったってもうどうにもならないことも分かる。せめて、あの子から産まれてくる子だけはそうはならないように、と思って生きていたザマがこれさ。また、私は自分の子を傷つけた、、、。」

 そう言いながら、タミコは賢治の元に近づき、足元で縋るように蹲った。ごめんよ、と嘆くタミコを見ながら賢治は立ち尽くしたまま動けないままでいた。

 セミがいなくなったはずのヒノキの木にまたセミが止まり、ミンミンと鳴き始める。あぁ、と心の中か口に出してか分からないが賢治がつぶやいた。

 やはり知らない方がいいことは、知らない方がいいんだ、傷つかなくて済むから。でも、知らなくてはいけないこともあって、それを知ったらまた傷ついて。母親や祖母みたいにならない為には、自分としては生きるためには、たくさんのことを知って傷つかなくてはいけなくて。あぁ、俺は、何をしている?

 足元で自分の祖母が跪き、自分は立ち尽くし、セミは泣き喚く、この時間は永遠のように感じた。望んだ永遠は望まないタイミングで来るものだった。でも、もうそれに憤りなんて感じられないぐらいに、この瞬間に賢治は疲れていた。

 今この瞬間が永遠でいてくれるなら、今日眠りについたときに夢なんて見なくて済む。でも、もう夢なんて見なくたって、もう現実は右側の日が刺すとこにいる。それでも賢治は、光が届かない、足一歩分の大きさもない日陰のある左側を向いていた。

 セミはいつまでも、ヒノキの木から離れようとはしなかった。

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